第二百十九話子どもの心を忘れない
風光明媚な五浦海岸のほど近く。
強い風をものともせず、優雅に舞い飛ぶカモメたち。
波しぶきが砕け散る海辺に、雨情の歌碑が立っています。
彼は、磯の香りをかぐと、ふるさとに帰ってきたという心持ちになったと言いました。
「野口雨情生家・資料館」は、東日本大震災で一階が水没しましたが、その後、再建。
海を臨む味わい深い家屋に、多くのひとが訪れています。
北原白秋、西條八十(さいじょう・やそ)とともに、童謡界の三大詩人と言われる雨情の作品群の中に、学校の校歌があります。
日本各地のみならず、台湾や中国の学校にも校歌の歌詞を書きました。
小さなバッグひとつを持って全国を放浪し、ひとに会い、風景を眺める。
その場所の匂いをかぎ、その場所の食べ物を食べ、土地によりそう。
そうしてできた彼の詞には、若者を励ます温かいまなざしと、ふるさとを愛する心を持ってくださいという願いが込められています。
常に子どもの心を失わないように、何を見ても純粋な目を大切にした雨情ですが、その人生は、決して順風満帆ではありませんでした。
父の事業の失敗、死。
我が子を失い、酒におぼれる日々。
18歳で詩を書き始めましたが、世の中に認められたのは、38歳のときに記した『十五夜お月さん』でした。
およそ20年間。
陽の目をみることなく書き溜めた作品は、やがて花開き、多くのひとに感動を届けます。
現実の荒波に翻弄されながらも、彼は書くことをやめませんでした。
それは書くことが、彼にとって唯一の生きる意味だったからかもしれません。
童謡界の偉人、野口雨情が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
童謡『シャボン玉』で知られる詩人・野口雨情は、1882年5月29日、現在の茨城県北茨城市に生まれた。
家は、水戸藩の流れをくみ、船問屋を営む名家。裕福だった。
長男として生まれた雨情は、自由にのびのびと育てられた。
村にやってくる飴売りの色とりどりの飴がほしいだけでは物足りず、飴屋が持っている木の箱がほしいと親に言った。
父は「この箱をいくらかでゆずってもらうわけにはいかないか?」と聞いてみる。
「いやあ、飴ならいくらでも売りますがねえ、これ売っちまったら、こちとら商売できません」と断られた。
それでも雨情は諦めない。
一度言い出したら決して引っ込めない性分。
仕方なく、父は、近所の大工に頼んで作らせた。
それを渡すと、「ボクがほしいのは、飴屋の箱なんだ」と言ってきかない。
父は、新しく作った箱を飴屋に渡し、なんとか使い古した木の箱をゆずってもらった。
しかししばらくして、雨情がその箱に飽きてしまったとき、父は厳しく叱った。
「欲しくて欲しくてたまらなかったものを手にしたら、簡単に手放してはいけない! 物をちゃんと愛せない人間は、ひとを愛することもできない!」
童謡界の日本三大詩人のひとり、野口雨情は、自由に育てられたが、我がままの一歩手前で厳しさも味わった。
特に父に何度も言われたこと。それは、こんな戒めだった。
「他人と争ってはいけない。昔から言われているとおり、負けるが勝ち。表面上は負けていても、心の中で勝てばいいんだ、わかったな」
雨情は、この言葉を生涯忘れなかった。
後年、童謡詩人として有名になった頃、童謡とは何かという議論が白熱した。
リズムを持ったものは古い。
標準語で書かねばならぬ。
唄えなくてもいい。
特に、本当の童謡は大人には作れないのではないかという議論は、雨情への批判にもつながった。
そのときも、雨情は泰然自若。
動じず、騒がず。
決して争いの渦中に入ることはなかった。
ただ、こう述べた。
「大人がつくっても、子どもがつくっても、童謡は童謡なんです。ただひとつ言えるとするならば、たったひとつ、ひとの心の深い場所に届く言葉を選べるかどうか。それに尽きると思います」。
子どもの心、童心を忘れないかぎり、どんなに歳を重ねても童謡は書けると、彼は信じていたのです。
難しい言葉は、いらない。
できるだけわかりやすい言葉で、深く深く降りていきたい。
それが野口雨情の願いでした。
野口雨情は、高等小学校を卒業すると、東京専門学校、現在の早稲田大学に進学し、坪内逍遥に師事。
しかし、1年あまりで辞めてしまう。
生き方を見失いかけたころ、友人に「おまえ、俳句つくったことあるか?」と言われ、詩作に興味を持つ。
言葉で世界を表す。
その自由さ、そして奥深さに魅了された。
東京で詩を書いていきたい、そう思い始めたとき、父が事業に失敗し、亡くなる。
ふるさとに戻り、家督をつがねばならない。
実業に身を投じながら、詩を書き続けた。
一度、手に入れたものは、簡単に手放さない。
言葉が魔法に変わる瞬間を味わった経験を、忘れることはなかった。
よく浜辺を散歩した。
月が綺麗な夜は、酒を飲み、月を眺めた。
吹き渡る風が、うらやましかった。
自分も風のように、自由に飛び回りたい。
「己(おれ)の家のうしろの沼に 風が吹く 実に しみじみ風が吹く 見れば見るほど 風が吹く 山の方から 風が吹く 広い河原の砂利石(ざりいし)に 風は鳴り鳴り 吹いて来る」
雨情は、故郷を出て樺太に渡る決心をする。
このままでは、自分の童心が消えてしまう。
動くこと。窮屈な世界から飛び出すこと。
樺太では事業に失敗したが、彼は自分にとって、いかに詩作が大事かわかった。
彼は気づいた。
己の童心は、己で守らねばならない。
野口雨情は、自分の中の子どもの心を守り抜き、名作を世に残した。
【ON AIR LIST】
しゃぼん玉 / 森みゆき、宮内良
青い眼の人形 / ダ・カーポ
あの町 この町 / 平井英子(歌)、中山晋平(ピアノ)
雨降りお月~雲の陰 / 由紀さおり
七つの子 / カルメン・マキ
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