第三百四十二話道を探し続ける
早坂文雄(はやさか・ふみお)。
41歳の若さで亡くなった彼は、亡くなる直前まで作曲を続けました。
亡くなる1年前に公開された『七人の侍』は、肺結核だった早坂の病床に録音編集機が持ち込まれての作曲。
容赦ない黒澤監督の要望に、命の限界まで応えようとする早坂とのやりとりは、周りの人間がはらはらするほど、熾烈で過酷なものだったと言われています。
黒澤と早坂の間には、絶大なる尊敬と信頼関係がありました。
早坂が、一度はボツになった音楽を再構成して提案すると、「それだ! それだよ! 早坂さん!」と黒澤は大声をあげました。
よりよいものを創るために、決して妥協しない。
二人の芸術家は、常に道を探し続けたのです。
病いに苦しむ中、早坂が音楽を担当した溝口健二監督の『雨月物語』が、「ベネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した」という知らせが届きます。
黒澤監督の『羅生門』での金獅子賞に次ぐ、早坂音楽の快挙でした。
早坂文雄が目指した音楽は、汎東洋音楽、すなわち、パン・エイシアニズムです。
西洋的な音楽の合理的なリズムを真っ向から否定し、日本人の感性に根差した、無調、無限形式を採用しました。
日本人とは、何か。
民族のアイデンティティは、どこにあるのか。
早坂が探求してたどり着いた方法論です。
雅楽の雰囲気を多く入れ込んだ、飛鳥や奈良、平安朝のイメージを醸し出す日本的な楽曲は、多くの音楽家に影響を与え、弟子ともいえる武満徹は、『弦楽のためのレクイエム』という曲を早坂に捧げています。
早坂文雄は、幼い頃から英才教育を受けた、選ばれた神童だったのでしょうか。
親に養ってもらえず、妹や弟を育てるため、高校進学を諦めざるを得ない、境遇でした。
それでも彼は、自分の道を探し続けたのです。
日本の音楽を世界に知らしめたレジェンド・早坂文雄が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
映画音楽の大家・早坂文雄は、1914年8月19日、宮城県仙台市に生まれた。
早坂家は、代々、鳴瀬川近くに広大な農地を持つ、裕福な地主だった。
しかし、文雄の父が家業を継がず、新しい仕事を始めては失敗し、その資産を食いつぶしてしまう。
あげくの果てに、ふるさとを追われる。
文雄が3歳を過ぎた頃、一家は、仙台を逃れ、知人が暮らす、北海道札幌に移り住んだ。
父は保険の外交、母は理髪店を始めた。
小学生になった文雄は、絵が得意だった。
展覧会に出品して、入選。
絵を画きながら、ときどき母にこうつぶやいた。
「お母さん、ボクね、絵を画いていると、音楽が聴こえてくるんだ。聴いたことのない音楽が、ずっと頭の中で鳴るんだよ」
奇妙なことを言う子だと、母は特に気に留めなかった。
中学に入ると、母の仕事の手伝いをした。
ときどき、理髪店の店先にある長椅子に座り、ハーモニカを吹いた。
そのハーモニカがあまりにうまくて、町で噂になる。
ある日、彼の前に同じ中学の上級生がやってくる。
「君、よかったら、音楽部に入らないか?」
「いや、すみません、手伝いがあるので音楽部は無理です」
「一度でいい、放課後、音楽室に来てくれたまえ」
おそるおそる音楽室をのぞく。まだ誰もいない。
オルガンがあった。
鍵盤に指を置く。
音色が室内に響いた。
「ああ、これだ、ボクがやりたかったのは、これだ」
早坂文雄は、音楽という名のドアを開いた。
映画音楽の作曲家・早坂文雄は、中学時代、オルガンとピアノに夢中になった。
父は行方をくらまし、母の稼ぎだけが頼りだったので、家計は苦しく、買えた楽器はハーモニカが精一杯。
でも音楽部に所属すれば、好きなだけオルガンを弾くことができた。
中学3年生のとき、早坂の活躍もあり、ハーモニカコンクール北海道大会で優勝。
みんなで肩を抱き合い喜んだ。
うれしかった。
音楽でひとつになれる体験が心に刻まれる。
音楽を生涯の生業にしたい。
胸に希望の明かりが灯る。
しかし、その明かりは一瞬で吹き消されてしまう。
早坂が中学の卒業を控えていた矢先、母が病に倒れる。
全身、黄色くなり、やせ細った母が、枕元に文雄を呼んだ。
「お父さんが保険の仕事してただろ。お母さんね、それに入ったんだよ。私が死んだらお金が入るから、いいかい、文雄、それでピアノを買いなさい。おまえは、音楽を続けなさい」
母は、亡くなった。まだ40歳だった。
母の葬儀にいきなり父が姿を見せる。
文雄は父に怒りの言葉を吐いたが、通じない。
母の保険金は、全て父の飲み代に消え、せっかく買ったピアノも、あっという間に売られてしまった。
文雄は、中学校の授業料も払えなくなる。
このままでは卒業できない。
助けてくれたのは音楽の仲間たちだった。
彼らの多くは裕福な家庭に生まれた生徒たち。
親に話し、お金を工面してくれた。
その仲間の中に、のちにゴジラの映画音楽を作曲する、伊福部昭(いふくべ・あきら)もいた。
恐縮する早坂に、同い年の伊福部は言った。
「お金なんて、どうでもいい。大切なのは、君が音楽を続けられるかどうかなんだよ」
早坂文雄は、中学を出ると、クリーニング店に就職した。
得意先の家を、御用聞きに回る。
家の中にピアノがあると、いてもたってもいられない。
「あ、あの、すみません、ピアノを弾かせてもらってもいいですか?」
たいていの家は、「いいですよ、どうぞ」と言ってくれた。
しかし、早坂はいったん弾きだすと止まらない。やめられない。
やがて店主に苦情が寄せられ、早坂はクビになってしまう。
次に働いた印刷所では、伊福部に誘われた音楽活動に力を入れるあまり、やはり解雇。
なんとか音楽で生きていける道がないか、探した。
そのあともさまざまな職を転々として、ようやく音楽活動が軌道に乗り始める。
当時の札幌には、海外から優れた音楽家を招待する素地があった。
20歳の早坂文雄は、「国際現代音楽祭」に出場。
日本初演となるエリック・サティの『三つのグノシェンヌ』を弾いて絶賛される。
会場に響き渡る拍手を聴きながら、早坂は思った。
「これから先、ボクは、音楽に妥協はしない。自分の音楽を極めるための努力を、決して惜しまない。天国の母に、聴いてもらうために」。
【ON AIR LIST】
侍のテーマ(映画『七人の侍』より) / 早坂文雄(作曲)、本名徹次(指揮)、日本フィルハーモニー交響楽団
「室内のためのピアノ小品集」より第12曲~優しくふんわりと歌うようなラルゴ / 早坂文雄(作曲)、高橋アキ(ピアノ)
真砂の証言の場面のボレロ(映画『羅生門』より) / 早坂文雄(作曲)、本名徹次(指揮)、日本フィルハーモニー交響楽団
左方の舞と右方の舞 / 早坂文雄(作曲)、ドミトリ・ヤブロンスキー(指揮)、ロシア・フィルハーモニー管弦楽団
★今回の撮影は、旧東京音楽学校奏楽堂様にご協力いただきました。ありがとうございました。
建物公開日等、詳しくは公式HPにてご確認ください。
旧東京音楽学校奏楽堂HP
https://www.taitocity.net/zaidan/sougakudou/
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