第三百七十五話とことん好きになる
黒澤明(くろさわ・あきら)。
黒澤の父は、秋田県仙北郡豊川、現在の大仙市豊川出身で、黒澤は、幼い頃から何度も訪れました。
東京で生まれ育った彼にとって、秋田の大自然は最高の遊び場。
野山を駆け回り、滝に飛び込み、渓流で魚をつかまえる。
まさかその原体験が、あの名作『七人の侍』や『影武者』など、多くの監督作品に投影されることなど、当時の黒澤少年は思ってもみなかったでしょう。
彼が、「自伝のようなもの」と称したエッセイ『蝦蟇の油』によれば、生まれてから最初の記憶も、秋田の実家でした。
1歳の黒澤は、裸で洗面器の中にいます。
なんだか薄暗い場所。
洗面器は両方から傾斜した板の間の真ん中、そのいちばん低いところで、グラグラ揺れています。
それが面白くなって、洗面器のふちをつかみ、自分でゆする、何度もゆする。
やがて、洗面器はくるんとひっくり返ってしまう。
そのときの激しい動揺と、裸で、ぬるぬるした板の間に落ちた感触、そして、見上げた天井にぶら下がる石油ランプの光を生き生きと覚えていました。
『蝦蟇の油』には、他にも幼児期の記憶が記されています。
金網の向こうに、白い服を着たひとたちが、棒っキレを振り回して球を打ったり、転がった球を追いかけたりしている。
これは、住んでいた場所が、父が勤める日本体育大学の前身、日本体育会体操学校の敷地内にあった教職員住宅だったからです。
野球場のネット裏から、野球を見ていたのでしょう。
元・軍人の父は、体操学校に勤め、日本古来の柔道や剣道の普及に貢献、プールを初めて日本につくるなど、日本スポーツ界の発展に寄与した重鎮でした。
その厳格そのものの父が、映画は教育上よくないという風潮に抗い、積極的に家族で映画鑑賞に出かけたことも、のちの世界的な巨匠を生む素地を作りました。
黒澤のデビュー作は、戦争のさなかに作った『姿三四郎』。
「用意ッ、スタート!」
そう初めて声をかけたとき、照れくさい思いがしましたが、二度目から、ただもう面白く、映画監督に夢中になっていきます。
好きだから、もっと学ぶ。もっと学べば、さらに好きになる。
そんな幸福のスパイラルこそ人生の醍醐味であると、彼はインタビューに語っています。
ひとつのシーンも手を抜かない。
出てくる役者さん全てに愛情を注ぐ「世界のクロサワ」、黒澤明が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
映画監督・黒澤明は、1910年3月23日、現在の東京都品川区に生まれた。
黒澤明といえば、背は高く、がっしりした体格に、豪快な人柄、という印象があるが、子どもの頃はひ弱で色白。
同級生にいじめられては、泣いてばかりいた。
ついたあだ名は、コンペト。
お菓子の金平糖のことで、由来は、こんな歌の歌詞にあった。
「うちの金平糖(コンペト)さんには困ります、困ります。何時も涙をポーロポロ、ポーロポロ」
小学1年生のときは、学校で先生の言うことが全く理解できない。
ひとり、他の子どもたちと離れた場所に机を置かれた。
さらに先生には「これは黒澤君にはわからないだろうが」「これは黒澤君には無理だが」と言われ、みんなに笑われる。
悔しい、恥ずかしい、みじめで哀しい。
まるで牢獄の中にいるようだった。
転機が訪れたのは、2年生の時、別の小学校に転校したこと。
相変わらずいじめられたが、二人の救世主がいた。
ひとりは、兄。弱い弟に容赦なく厳しく接する一方、休み時間は、弟がいじめられていないかと目を光らせた。
もうひとりが、担任の立川先生。
立川先生は、闇に閉ざされていた黒澤少年の心に、一筋の光を与えてくれた。
黒澤明、小学3年生のときの図画の時間。
通常、図画でいい点をもらうのは、対象をいかに忠実に再現できるかだった。
でも、黒澤はそれができず、いつも同級生たちに笑われていた。
その日、担任の立川先生は生徒たちに「好きなものを自由に画きなさい」と言った。
黒澤は先生の言うとおり、一生懸命、思うがまま画いた。
色鉛筆は、あまりの力で折れそうになる。
塗った色に自分の唾をつけて、こすりつける。
色はにじみ、不思議な風合いを出す。
指はあっという間に七色に染まった。
立川先生は、生徒たちの絵を一枚一枚黒板に貼り、自由に感想を言うようにいった。
黒澤の絵が貼られたとき、同級生たちはみんな、げらげら笑った。
でも、先生は、そんな生徒たちを怖い目で睨む。
そして、言った。
「いやあ、この絵は素晴らしいよ、黒澤。おまえの絵はいい。自由で、力がある」
絵に、赤いインクで三重丸を画いてくれた。
うれしかった。初めてほめられた。
黒澤明は、そのときのことを一生忘れなかった。
黒澤明は、小学生の時の立川先生に教わった。
ひとに褒められようとする絵は、うすっぺらい。
大切なのは、どれだけ一生懸命画いたかということ。
手や服を汚し、みっともない格好を気にする余裕もないほど、一心不乱に創作と向き合わないかぎり、誰の心にも届かない。
黒澤少年は、絵が好きになった。
画いた。とにかく、画いて画いて画いた。
好きになると、もっとうまくなりたくなって、学ぶ。
学べばうまくなって、もっと好きになる。
どんどん奥に入っていくと、面白みが倍増していく。
黒澤明監督には、さまざまな伝説がある。
工場で強制的に働かされる少女を撮るため、女優に実際に工場で働いてもらったり、村人の衣服の汚れをリアルにするため、スタッフにその服で何か月も生活してもらい、汚れや匂いを本物にしたり、撮影の邪魔になる民家の屋根を壊すように指示したり、今では考えられないスケールだった。
でも、そのすべてに、黒澤の映画への想いがある。
「たった1カットでも手を抜いたら、映画は死んでしまう」
「好き」を追求し「好き」の先にある映画を極めた巨匠・黒澤明は、『蝦蟇の油』でこんなふうに書いている。
「私は、特別な人間ではない。
特別に強い人間でもなく、特別に才能をめぐまれた人間でもない。
私は、弱味を見せるのが嫌いな人間で、人に負けるのが嫌いだから努力している人間に過ぎない。
ただ、それだけだ」
【ON AIR LIST】
プラネタリウム / BUMP OF CHICKEN
Going Out Of My Head / Sergio Mendes
レアルシ(輝き) / Gilberto Gil
閉じる