第百九話弱気は最大の敵
カープの連覇は37年ぶりで2度目。
セ・リーグで複数回の連覇は、巨人に次いで2球団目で、2年続けることがいかに困難であるかを物語っています。
優勝を決めた阪神甲子園球場は、カープを応援する「赤」で埋め尽くされていました。
原爆によって焦土と化した広島という街に、わずか4年でつくりあげられた球団は、「広島市民に元気と勇気を届けたい!」という熱い思いがつまった復興のシンボルでした。
カープが市民球団と呼ばれるのは、他の球団と違い、親会社を持たず、独立採算制をとっているからです。
親会社からの赤字の補填がないため、設立当時は、厳しい台所事情を抱えていました。
それでも、広島を、広島カープを愛する多くのひとの助けにより、独自の道を歩んできたのです。
広島市民球場開設を前に広島財界も動きましたが、当時の東洋工業の社長、松田恒次は、こんな提案をしました。
「広く、球場建設資金を募集しようじゃないか。そうだ、名古屋城再建のときに居金箱を用いているが、あの手は面白い。広島市内のあらゆる料亭、飲食店、キャバレー、喫茶店にその箱を置いて、1ヶ月ごとに集計して、そのつど、中国新聞で発表すればいい。この方法は競争になるから効果があるよ。よし、その箱は僕が寄付しよう…」。
選手獲得に関しては、高い年棒を捻出するより、若手の育成に力を注ぎました。
そうしてできあがったチームは、揺るぎない結束力と地元からの大声援を得たのです。
そんな広島カープにあって、忘れられない伝説の投手がいます。
「炎のストッパー」、津田恒美(つだ・つねみ)。
悪性脳腫瘍のため、わずか32歳でこの世を去った津田は、闘志むき出しの投球でファンを魅了し、優勝を牽引しました。
彼はあらゆるものと闘ってきました。
怪我や病、そして己の弱気。
闘うひとだからこそ、ひとを励ますことができたのです。
剛速球投手、津田恒美が、短い人生でつかんだ明日へのyes!とは?
広島カープの抑えの切り札だった「炎のストッパー」、津田恒美は、1960年山口県、現在の周南市に生まれた。
杉林に囲まれた山間地を流れる島地川。
のどかな里山の風景は生涯、彼の心に生きていたに違いない。
「野球選手を引退したら、田舎に戻って農業、やろうかな。それでも、今までどおり仲良くしてくれるか?」
友人にそんなふうに語ったという。
津田は、幼いときから剛腕ぶりを発揮していた。
小学生のときは、ソフトボール。中学時代は軟式野球。
いずれも共通するのは、球は速いが、コントロールが定まらない。
監督やコーチも、どう指導していいか頭を悩ませた。
相手バッターは、フォアボールか三振。バットに当たらない。
そんな津田の投球を見て、南陽工業高校の監督が惚れた。
すらっと背が高く、針金みたいな体。
しなやかに繰り出す速球は、今まで聴いたことがない音を立ててミットに吸い込まれた。
速い。とにかく、速い。
強豪校の誘いもあったが、自宅から近かったこともあり、まだ甲子園で無名の南陽に進学を決めた。
野球部の坂本監督は、津田の凄さと同時に、脆さも知ることになる。
それは、彼の弱気だった。
元広島カープの剛速球投手・津田恒美。
高校時代の野球部の監督は彼の凄さと同時に脆さも知った。
性格が、弱い。優しすぎる。内気で目立つことが嫌い。
ひと前に出ると、自分を見失うことが多かった。
大事な試合の前には、一睡もできない。
監督は、彼を鍛えるため、いろいろ試みた。
大勢の前で歌を歌わせたり、スピーチをさせたりした。
でも、彼の弱気は治らない。
あるとき監督は津田に透明な袋に入れた小麦粉を「これ、精神安定剤だ。これ飲んだら眠れるぞ」と試合前に渡した。
全く効果はなかった。
いちばん辛かったのは、本人だ。
大好きな野球。力を出し切れば、誰にも打たれない自信がある。
でも、ドキドキする。
眠れない。弱気が体中に拡がり、彼に襲いかかる。
殻を破るきっかけは、2年の夏の地区予選。
そこで津田は、完全試合をやってのける。
完全試合とは、一本のヒットどころか、フォアボールも含めてだれひとり一塁ベースを踏ませないということ。
最後の打者をファーストフライに打ち取り、マウンドにいる津田のまわりにナインが集まる。
でも、彼は冷静だった。
「落ちるカーブが決まってくれたんで楽でした」。
インタビューにも淡々と答えた。
はしゃぐことはないが、自らを振り返っていた。
「結局、自分の弱気を振り払えるのは自分しかいない。少しずつでも、こうやって自分に自信をつけていくしか道はない。『弱気は最大の敵』。オレは、この言葉と一生つきあっていく」。
津田恒美のプロ野球選手としての人生は、順調にスタートした。
ドラフト1位で、広島カープに入団。
古葉監督の期待通り、1年目で11勝をあげ、見事、球団初の新人王に輝く。
しかし、2年目の後半から、暗雲がたちこめる。
右手中指の血行障害。登板できなくなり、手術を余儀なくされる。
野球ができないことも辛かったが、まわりの冷たい反応もきつかった。
ちやほやしてくれたひとも怪我をすれば、あっという間に去っていく。
ひとの気持ちの移ろいやすさに、傷ついた。
2軍落ち。野球をやめる選択も考えた。
背番号を「15」から「14」に替え、名前も、恒美の「み」を美しいという字から実力の実に改名。
美しさではなく、実をとる。
なにふりかまわず、もう一度野球に魂を捧げたいという決意の表れだった。
やがて抑え投手として、復活。
抑えという役割が、彼に合っていた。
闘志を前面に押し出し、ストレートをガンガン投げまくる。
ついた名前が「炎のストッパー」。
1986年のシーズンは、チーム5度目の優勝に貢献し、カムバック賞を獲得した。
しかし、ストッパーには先発投手にはないプレッシャーがかかる。
自分が打たれれば、前半を頑張って投げ抜いた投手の勝ち星を消してしまう。
実際、津田は自分が打たれてしまったときは、先発投手のもとに30分おきにあやまりにいったこともあったという。
さらに翌日は早めに球場に入り、誰もいない外野スタンドの階段を黙々とランニングした。
その姿は応援してくれたお客さんへの懺悔にも見えたらしい。
気の弱さと優しさは、生涯変わらなかった。
でも、それを知っていたからこそ、彼はどんな苦境も乗り越え、奇跡的な復活を遂げることができた。
弱さが敵なのではない。
弱い自分から目を背けることが敵なのだ。
彼がいまだに若きカープ選手の目標であり続けるのは、いつも彼が教えてくれるからだ。
「一球一球に魂を込めることでしか、ひとは強くなれない」
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