第八十三話何度ダメでも諦めない
その名目は『信仰の対象と芸術の源泉』。
その言葉のとおり、富士山は多くの芸術家の魂をゆさぶり、創作意欲やひらめきを与えてきました。
2008年に103歳でこの世を去った女性日本画家、片岡球子(かたおか・たまこ)もまた、富士山に魅せられ、富士山に絵を画くことの素晴らしさと恐ろしさを教えてもらったひとりです。
戦前、戦後、混沌と激動の中で、ひたすら絵に向き合い続けた片岡の生涯は、決して平坦なものではありませんでした。
まだまだ女性の社会進出がたやすいものではなかった時代。
特に画壇において、女性が男性に肩を並べるのは、難しい情勢でした。
そんな中、片岡球子は走り続けました。
美術展に何度も何度も出品するも、落選ばかり。
あげくのはてにつけられた呼び名は「落選の神様」。
好きな男性との結婚話も断り、食べていくために小学校の教諭をしながらの創作活動。
そのひたむきな姿勢、向上心は、やがて新しい世界につながるドアを開きます。
70歳の彼女は、こんな言葉を残しています。
「人のかなしみ、苦しみのときに、その人のこころに何かを感じられるような、そういう絵が一枚でも描けたら、と。私は、それをねがいながら、これからの毎日を、生き生きと勉強を続けてゆきたいと、思います」。
何枚も何枚も富士山を画くことで、彼女は何を伝えようとしたのでしょうか?
女性日本画家、片岡球子が富士山を画くことでつかんだ明日へのyes!とは?
女性日本画家、片岡球子は、1905年1月5日、北海道札幌市に生まれた。
父は酒、味噌、醤油の醸造業を営んでいた。
家業が順調。球子は、何不自由ない幼年時代をおくる。
8人兄弟の長女として期待を一身に浴び、女子の教育機関としては当時、最も優秀な生徒が集う札幌高等女学校に入学した。
医者になりたい、そう思っていた。
しかし、卒業間近に突然、進路を変える。
「球子さんは、絵がうまいねえ」
そんな友人のひとことがきっかけだった。
初めてひとに褒められたような気持になった。
親の反対を押し切り、東京の女子美術学校日本画科に入学する。
親の心づもりは、こうだった。
「好きなことをとりあえずさせておくが、卒業したら札幌に連れ戻し、許嫁と結婚させよう」。
そんな思惑とは別に、片岡球子は、どんどん絵を画くことにのめり込んでいく。
「ああ、自分はなんて下手くそなんだろう。デッサンもダメ、色の使い方にもセンスがない。やればやるほど、自分に足りないものが、見えてくる」
女子美術学校の卒業を控え、球子に選択が迫られる。
札幌で結婚するか、絵の道を究めるか。
親同士が決めた許嫁だったが、彼女はその男性のことが好きだった。
でも…
「私は絵が画きたい。私は…画家になりたい!」
こうして、彼女はあえて、いばらの道を選ぶことにした。
「たった一度しかない人生。私にしかできないことをやってみたい!」
日本画家、片岡球子は、画家になることを決意した。
でも、食べていかねばならない。
小学校の先生をしながら、画家を目指すことにする。
赴任したのは、横浜市立大岡尋常高等小学校。
朝、学校に行く前に絵を画く。
学校から帰り、翌日の授業の準備を終えた深夜、また絵筆をとった。
布団で休むことはほとんどない。
机につっぷしたまま、あるいは床で倒れるように眠る。
帝国美術院展に作品を出品。
ことごとく落選する。そのたびに激しく落ち込んだ。
それでも絵を画くことは、諦めなかった。
あまりに落選が続いたので、ついたあだ名が「落選の神様」。
そんなことを言われて辛くないはずがない。
でも、彼女は歯をくいしばって画き続けた。
ようやく『枇杷(びわ)』という作品で初入選を果たす。
伝統的な日本画を継承する繊細な絵だった。
枇杷の実の色、木の葉っぱの微妙な色の違い。
今まで学んできたものを全てぶつけた。
彼女の真骨頂は、日常を丁寧に描くこと。
偉人や歴史上の人物ではなく、ごくごくフツウに暮らすひとたちを描いた。
小学校の先生をしているからこそ、彼女の軸はいつも市井(しせい)のひとにあった。
「日々、何を見て、何を感じるか、結局のところ、全ての仕事はそこから始まる」。
日本画家、片岡球子は、60歳を目前にして、富士山というテーマに出会う。
大尊敬する葛飾北斎や横山大観先生が、なぜそんなにまで富士山に魅かれたのか。
知りたかった。と同時に、少しなめている自分もいた。
「富士山なんて、簡単じゃないかな。白扇をさかさまにすればいいんじゃないの」。
ところが、対峙した富士山にいきなりこう怒鳴られたように感じる。
「バカヤロウ!おまえに私が画けるか?」
画いてみてわかった。
高さも奥行きも、何より山の恐ろしさが全く表現できない。
すごい、富士山はすごい!
片岡球子は、神奈川県藤沢市に家を移し、とことん富士山に向き合うことを決める。
一度こうと決めたら、どんなに苦難があってもやめない。
ダメでも下手でもやり続ける。
そんな愚直なまでの努力しか、自分に武器はない。
96歳のときに、彼女はこんなふうに語っている。
「あどけない私の画く富士が、人々に勇気を与えたり、病気が治るような気持になったり、何か良いことに出会いそうな豊かな心に恵まれたり、そんなことができたらなあと乙女の祈りのような心で、たくさん、画いていくつもりです」
片岡球子の富士は、唯一無二だった。
激しさと繊細さが同居して、観るものの背中を押してくれる。
そこに、彼女の生きざまが見える。
そこに、彼女の諦めない心が見える。
「諦めたら、そこで終わりだから、私はとにかく、画き続ける」
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