第六十七話できないと言わない
熊本人の性質を表すその意味は、純粋で頑固、正義感が強く、こうと決めたらてこでも動かない。
そんな熊本人気質を十二分に備えたビジネス界の風雲児がいます。
オムロンの前身である立石電機製作所を設立した、立石一真。
新しい技術開発を続け、ベンチャー経営の先駆けとも言われた20世紀を代表する経済人です。
立石は熊本城のほど近くに生まれ、熊本高等工業学校、のちの熊本大学工学部を卒業して、エレクトロニクス産業を牽引してきました。
レントゲン写真撮影用のタイマーや、銀行のキャッシュディスペンサー、制御機器から医療用の義手まで、さまざまな電気、電子機器の開発・製造を成し遂げ、50歳を過ぎてから、従業員を100倍、売り上げを1000倍に伸ばしたのです。
彼のモットーは「できませんと言うな!」でした。
彼は部下たちに言いました。
「ダメと決めつけるのはたやすい。しかし、改善の余地ありでなければ、創造の将来はない。『まずやってみる』が我々が築きあげてきた企業文化なのだ」。
小さな工場を、世界的な企業に押し上げた、その手腕と努力は、彼の頑固さ、正義感、純粋さに裏打ちされていました。
企業人、立石一真が大切にしたのはただひとつ、「社会の役に立ちたい」という思いでした。
そんな彼が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
オムロンの創業者、立石一真は、1900年、熊本に生まれた。
父は陸軍の記念品用の伊万里焼の盃を製造販売していた。
祖父が佐賀で伊万里焼を習得し、この商売を興した。
事業は順風満帆。立石も裕福な環境に育った。
しかし、小学1年の春、父が亡くなる。
途端に家計は貧窮の一途をたどった。
新聞配達をして家計を助ける。
お金のありがたさを知った。働くということの尊さも学んだ。
近所ではわんぱくで有名だった。
遊ぶときはとことん遊ぶ。陽が暮れるまで、走り回った。
熊本中学に進むが、経済的なことも考え、4年生のとき、難関の海軍兵学校を受ける。
身体検査で落ちてしまったけれど、学力検査を突破したことが自信につながった。
「みんなは、無理だと笑ったけど、やればできるじゃないか。やらないうちから諦めているやつより、ずっといい」
彼はますます勉学に励んだ。
熊本高等工業学校の電気科第一部電気化学を卒業。
兵庫県の土木課に就職した。
翌年には京都の配電盤メーカー、井上電機製作所に入り、電器製品の開発にたずさわる。
このときの経験がオムロン創立の礎となった。
もともと、大きな傘の下で守られながら働くのが性に合わなかった。
世界大恐慌の最中、会社を辞めた。
まわりから「立石、こんな逆風が吹く中、安定を捨てるなんてどうかしているぞ」と揶揄されても、彼は迷わなかった。
「リスクを冒さない決定は、決定ではない!」
オムロンの創業者、立石一真は、京都で独立した。
作った会社は、日用品の製造販売会社。
実用新案のズボンプレスを売り歩いた。
京都市内を自転車でまわる。大阪では飛び込みで訪問販売をした。
「うちはいらないよ!」「とっとと帰ってくれ!」
どんなに断られても、諦めなかった。
時には露店で販売もした。
自分の足で回ることで、販路をつくることの大切さを知った。
取引の難しさや、広告宣伝の方法も学んでいった。
商いは苦しかったが、彼にはひとつの信念があった。
「最もよくひとを幸福にするひとが、最もよく幸福となる」。
誰かの役に立ちたい。便利なものをつくって、誰かを助けたい。
自分のためではなく、自分以外のひとのために汗することは、やがて、実を結ぶ、そんな思いが彼の背中を押した。
販売は「もみ手でする」ものではない。そう考えると卑屈になる。
販売は社会に対する最も重要な奉仕だ。
だから誇りと自信を持つ。商品を売る前に、自分の誠実さを売る。
やがて、学生時代の友人の助言から、「レントゲン写真撮影用タイマー」の開発に成功した。
これを機に、大阪に「立石電機製作所」を開業。
これがオムロンの基礎になった。
立石一真、33歳のときだった。
企業人、立石一真は、35歳のとき、電機雑誌に先鋭的な企業広告を打ち、業界にその名をとどろかす。
やがて東京進出。東大の航空研究所からマイクロスイッチの国産化の依頼を受け、製品化に成功した。
しかし戦争が激化。
大量生産に至ることはなかったが、研究開発の成果は国内に知れ渡った。
戦争で工場は全壊。
松竹京都撮影所の空き倉庫を本社工場とした。
戦後49歳のとき、最愛の妻を亡くした。
立石一真は、走り続けた。
電熱器、ヘアアイロン、卓上電気ライター。
彼は言った。
「生産こそ、祖国復興の基本だ。特に技術革新こそが、経済発展への道なんだ!」
開発と販路拡大、なぜ、それほどまでに大きくするのか。
彼にはなるべく多くのひとを幸せにしたいという信念があった。
うまくいっても、うまくいかなくても、彼は心を乱されなかった。
「ひとにほめられて有頂天になり、ひとにくさされて憂うつになるなんて、およそナンセンスだよ。なぜなら、そんなことくらいで自分自身の価値が変わるもんじゃないからねえ。まずは、自分の受け持つ仕事に打ち込みなさい。たとえ利益が出ていなくても、将来、必ず何かの役に立つから」。
立石が59歳のとき、来日した経営学の権威、ピーター・F・ドラッカー教授が立石のプロデューサー・システムを大絶賛した。
プロデューサー・システムとは、映画界からヒントを得た、いわゆる分権制の経営。
それぞれに責任を持たせ、若手も登用した。
彼は常々、口にした。
「人間は、誰でも幸福になる権利があります。しかし、ひとを押しのけたり、足を引っ張ったりして自分だけ幸福になろうとしても、決して幸福にはなれないんです」。
やがて、大企業になった会社に、「大企業病」にかかってはいけないと警鐘をならした。
「いいですか、今、やるべきことをやりなさい。大切なのは、自分のためではなく、自分以外のひとのために、闘うのです」
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