第三百四十三話いかに生きるかを考える
梅原猛(うめはら・たけし)。
法隆寺建立の秘密をひもとく『隠された十字架』や『ヤマトタケル』『オオクニヌシ』などのスーパー歌舞伎の台本執筆など、その活動は多岐にわたり、日本の歴史や文化を独自に読み解く思想は『梅原日本学』と呼ばれました。
その特異な発想は、ときに学術界から猛反発を受け、批判の渦に飲み込まれることもありました。
でも彼は、自由な発想、自分のオリジナリティを、何よりも大切にしたのです。
梅原は、日本人の根底にあるのは、稲作文化ではなく、縄文時代の狩猟採集文化だと論じています。
青森の三内丸山遺跡の発掘にも多大な関心を寄せた彼は、田の文化の中に脈々と残る、森の文化に注目しました。
また、人間中心主義の西洋哲学だけでは、環境破壊や自然災害に答えが出せないと考えたのです。
「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの哲学。
我、すなわち人間が中心となって自然を支配しようと思っても、意のままにはならない。
梅原は、「自然と調和する文明に変わらないと、人類の持続的発展はありえない」と説きました。
特に心を痛めたのは、東日本大震災。
政府の復興構想会議の顧問になり、哲学者として発言したのは、この震災が、天災であり人災であり、文明災であること。
自然と仲良く、動植物と仲良くしていくことが、人間の本来の生き方だと語りました。
梅原は、母を知りません。彼を産んですぐに他界。
幼くして「死」を見つめたことが、のちの彼の言動の源になりました。
死を身近に感じながら、「ひとはいかに生きるべきか」と問い続けて走り抜けた、93年の生涯。
哀しみに裏打ちされた、伝説の哲学者・梅原猛が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
哲学者・梅原猛は1925年3月20日、仙台市肴町に生まれた。
父は、東北帝国大学の学生、母は、父が下宿する魚問屋の娘だった。
地主の跡取りだった父の実家は、結婚に猛反対。
しかも、2人とも結核にかかってしまう。
父は実家の愛知へ強制的に連れ戻され、母はひとりで子を産む覚悟を決めた。
医者は、とめる。
「あなたの今の体力と病状では、あなたも子どもも危険です」
しかし、母は諦めなかった。
「なんとしても、この子は産みます!」
生まれた男の子は、結核の感染から守るため、愛知県知多半島の父の親戚に預けられた。
どんな困難にも負けないようにと、「猛(たけし)」と名づけられる。
ほどなくして、母は亡くなった。20歳だった。
私生児として生まれたこと、自分の身代わりで母が死んだこと、この二つは、大人になってから梅原の心に哀しみの影を落とすことになる。
養父母は、心底、梅原を愛した。
実の子と分け隔てしない。
ほんとうの親のことは黙っていた。
しかし、頭のいい梅原はうすうす気づいていた。
「ボクは、このウチの子どもではないかもしれない」
大人たちの、ひそひそ話。
妙な気遣いが、少年を孤独にさせた。
唯一無二の哲学者・梅原猛は、幼い頃、神童と呼ばれた。
大相撲の力士のブロマイド写真。
顔を見ないで、足だけで、力士の名をあてた。
周囲の大人たちは、驚く。
「この子は、天才だ!」
将棋の駒を使って、自分で野球ゲームをあみだす。
これもまた、友だちや学校の先生に驚かれた。
しかし、梅原は、その種あかしを自分なりに知っていた。
誰ともしゃべらず、ひとり家にこもる日々。
有り余る時間、飽きるまでブロマイドを見れば、誰だって完全に覚えてしまうし、ひとり遊びが高じれば、ゲームだって作れるようになる。
怖かった。
ひととしゃべると、自分の両親が他人であることを告げられそうで、怖かった。
なんとなくわかってはいたが、養父母の前では、ひとかけらも疑っていない顔をした。
養父母は、誠心誠意、自分を可愛がってくれている。
悲しませてはいけない。そう、思った。
梅原は、理数系が得意だった。
明確に答えが出る学問のほうが、ゲーム感覚で没頭できる。
学ぶことは、現実逃避。
しかし、中学4年生のとき、川端康成の『十六歳の日記』を読んで、文学にはまる。
「出生の秘密を知るのが怖くて、ボクは人生に向き合うことをしてこなかった。ひとはなぜ生まれて来たのか、生きるとはどういうことか、それを深く考えないと、後悔する。文学や哲学は、今こそボクに必要だ」。
梅原猛の学生時代は、戦争と共にあった。
中学5年生のとき、太平洋戦争が勃発。
軍事教練の時間が何より苦痛だった。
家にこもる生活が長く、運動神経は鈍い。
教官から銃剣で殴られる。
第八高等学校に進んでも戦火は広がり、多くの学生にとっても「死」が身近なものになった。
ある生徒が全体集会で言った。
「人生は、25歳までだ! あといくばくかの人生、その運命を受け入れ、生き抜こうではないか!」
徴兵を逃れるために文科に移ったり、理科系に転向したりする同級生がいたが、梅原は、あえて特攻隊の養成機関に志願。
「どうせ死ぬなら、潔く生きたい」と思った。
しかしあえなく不合格となり、特攻隊入隊はかなわなかった。
思想書、哲学書を読みあさる。
名古屋の工場で勤労奉仕を行っているとき、大きな空襲にあった。
なんとか防空壕に逃げ込み助かったが、戦争の悲惨さを目の当たりにする。
自分の命について考えた。
死について、考えた。
そのころは、出生について事実を知らされていた。
母が、自分の命とひきかえに産み落としてくれた、命。
自分が一生を賭ける学問の根底に、命を置こう。
「生きている間に、自分が何をすべきか」
少なくとも、そこから目をそむけない生き方をしよう。
哲学者・梅原猛は、生涯をかけて、母に贈る壮大な返歌を詠んだ。
【ON AIR LIST】
哲学 / 浅井健一
FIGHT FOR YOU / H.E.R.
WHAT'S GOING ON / Los Lobos Feat.Sheryl Crow
★今回の撮影は、南知多町役場様にご協力いただきました。ありがとうございました。
梅原邸HP
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