第百九十七話自分だけの眼を持つ
その画家の名前は、オディロン・ルドン。
ルドンの代表的な作品は、幻想的で奇妙。
黒を基調としたキャンバスには、大きな眼が描かれています。
水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』で有名な「目玉おやじ」は、ルドンから着想を得たとされていたり、人気漫画『寄生獣』を描いた岩明均にも、多大な影響を与えたと言われています。
ルドンは、1840年生まれ。
印象派の巨匠、クロード・モネと同じ年に生まれました。
モネが、見たままをいかに表現するかに命を削った一方で、ルドンは、いかに目に見えないものを創造するかに心を砕いたのです。
モネは光を求め、ルドンは暗闇を描きました。
岐阜県美術館のコレクションには、見るひとを異次元にいざなうような、いくつかの石版画があります。
『おそらく花の中に最初の視覚が試みられた』という作品では、植物の花にあたる部分に大きな目玉が描かれています。
上目づかいの瞳は、いったい何を見つめているのか…。
幼くして里子に出されたルドンのやすらぎは、暗闇の中にありました。
闇に身をあずけ、膝をかかえ、いつも上目づかいに世界を眺める。
そんな時間を持つことで彼が手に入れたのは、「見えない世界にこそ、真実がある」という世界のしくみへの入り口でした。
彼の絵は、見るものに問いかけます。
「あなたは、ちゃんと世界を、人間を、見ていますか? まさしく今、隣にいるひとの心が、見えていますか? ほんとうの眼を持っていない人間は、しょせん何も見えてはいないんですよ」。
ひとと同じに生きることを拒み続けた孤高の画家、オディロン・ルドンが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
日本の漫画家にも多大な影響を与えた、幻想的な画風で知られる画家、オディロン・ルドンは、1840年、フランス・ボルドーで生まれた。
家は、ブルジョアの家系。裕福だった。
生まれたばかりのルドンは、病弱。
てんかんの発作を起こし、生死をさまよう。
両親は我が子を乳母と共に、ボルドー郊外のペイルルバートの屋敷におくった。
アメリカからフランスに移民として渡り、苦労して成功をおさめた父にとって、強さこそが生きる基準。
たとえ我が子であっても、身の回りに弱いものを置いておくことが耐え切れなかった。
父が別荘代わりに所有していた郊外の屋敷は、古びていて、とてつもなく広い。
ルドンは結局、そこで11歳まで暮らすことになる。
何もない田舎の村。
鬱蒼とした森、何が棲んでいるのかわからない沼、ときおり聴こえる獣の鳴き声。
さらに、家の中には、いたるところに「暗がり」があった。
厚いカーテンの下、部屋の片隅、廊下のつきあたり。
ルドンは、そんな暗がりが大好きだった。
暗闇に身をひそめると、体中に不思議な喜びがやってくる。
「ああ、ボクは、ボクという存在を消して、世の中を見ている」
フランスの画家、オディロン・ルドンは、暗闇に身をひそめ、あらゆる空想にふけった。
部屋の片隅から窓を眺める。
空が見えた。
「今、見ている空の雲は、一秒前の雲とは別のものだ。じゃあ、今、見ているというのはどういうことなのか。絶えず変わっていくものなら、今見ているものを信じていても、やがて裏切られるに違いない。見るってどういうことだ? ボクの眼は、いったい何のためにあるんだ?」。
そんな疑問を、誰にもぶつけることはできなかった。
屋敷のライブラリーにある本を読んだ。
どこかに自分が感じている不安や疑問を解決してくれる書物があるに違いない。
夢中でページをめくった。しかし、どこにも答えはなかった。
11歳になったルドンは、きちんとした教育を受けるために、ボルドーに連れ戻された。
いきなりの学校教育。
先生の言ったとおりにするのが、苦痛だった。
「先生はいったい、何の確信があって、そんなに強制できるんだろう。この世に絶対的なんてものがないのに、なんだってそんなに偉そうにできるんだろう」。
疑念は教師にも伝わり、「扱いづらい子」というレッテルを貼られてしまう。
ルドンにとって、放課後、教会に立ち寄って賛美歌を聴く時間だけが唯一の救いだった。
薄闇の中に流れる、調べ。
そこでは誰もがひとしく、眼を閉じていた。
大きな眼球の奇妙な絵で知られる画家、オディロン・ルドンは、15歳から絵を画くことに没頭した。
画く時間、自分が自由でいられた。
誰にも媚びず、誰にも気を使わなくていい。
想像のままに、筆をとる。
両親は、息子の絵の才能に気づき、パリの国立美術学校に入学させた。
しかし、父が許したのは、建築科。
「画家なんてもんは、食べていけん。ボヘミアンになるのが関の山だ。でも、建築はいいぞ。これからますますお金を稼げる」。
父の言うことに逆らうことはできない。
仕方なく、建築科に通いながら、隠れて絵を勉強した。
鬱屈とした日々を送っていたある日、学校をさぼり、庭園を散歩していた。
そこで偶然出会ったのが、植物学者のアルマン・クラヴォーだった。
クラヴォーは、採取したばかりの葉っぱを顕微鏡で見せてくれた。
「な、なんだ、この世界は! う、美しい!」
驚いた。
目に見えている葉っぱはそこにない。
あるのは、流れるような曲線に彩られた妖しい世界。
クラヴォーは言った。
「目に見えているものなんて、ほんの少しなんだよ。大事なのは、見えていないものをちゃんと見ることができる眼を持っているかどうか、なんだ」。
ルドンは、ようやくわかった。
子どもの頃、自分が闇の中で何を見ようとしていたのか。
そうか、それを絵にすればいいんだ。
そこに、世界のしくみがきっと見える。
【ON AIR LIST】
DARK NECESSITIES / Red Hot Chili Peppers
VICTIM OF THE DARKNESS / Allen Toussaint
「前奏曲集第2巻」より ヒースの茂る荒地 / ドビュッシー(作曲)、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(ピアノ)
ANY OTHER WORLD / MIKA
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