第二百五十話続けることの大切さ
丸山定夫(まるやま・さだお)。
歌舞伎や能という日本古来の伝統を継承する古典芸能とは一線を画した、全く新しい演劇。
シェイクスピアを翻訳した坪内逍遥の戯曲や、ヨーロッパのリアリズム演劇を日本に持ち込んだ小山内薫の新しい波は、知識人にこそ受け入れられましたが、一般大衆に浸透するのに時間を要しました。
ともすれば高等遊民の道楽、セリフ回しの下手な三文芝居と揶揄されがちだった新劇にあって、丸山の存在は異彩を放っていました。
職を転々として、食べるものにも困っていた青年が、たった一枚のチラシを手に握りしめ、創立間もない築地小劇場の門を叩いたのです。
インテリ集団に、突如、薄汚れた学生服で現れた男。
丸山には、演劇しかありませんでした。
演劇こそ、唯一、自分を引き上げ、生かす、最後の砦だったのです。
彼は、戦争中、劇場が次々封鎖される中にあっても、仲間をこんなふうに鼓舞しました。
「演劇っていうのはね、絶やしちゃいけない、ささやかな灯りなんだ。その灯りはささやかだけど、それを暗闇で待っているひとが必ずいるんだ。続けなきゃいけない。演劇は、続けなきゃいけないよ。時代が過酷であればあるほど、必要な灯りがあるんだ」
戦争が激化して、東京で芝居ができない状況になると、丸山は、移動演劇さくら隊の結成に参加。
隊長として、全国を回ります。
1945年8月6日。
中国地方巡回公演のため広島に滞在していて、被爆。
それから10日後、44年の生涯を閉じますが、最後まで役者として舞台に立つことを夢みていました。
人生を演劇に捧げた偉人、丸山定夫が私たちに残した、明日へのyes!とは?
広島の原爆に散った伝説の俳優・丸山定夫は、1901年5月31日、愛媛県松山市に生まれた。
父は、土佐藩の藩士の末裔。
海南新聞の記者で、気位が高かった。
酒を飲んであばれ、母を罵倒する。
そんな父を怖れ、おびえた。
丸山が小学2年生のとき、父が亡くなる。
極貧時代がやってくる。
子どもたちは方々、里子に出され、丸山も京都の親戚に預けられた。
ほどなくして、リンパの病にかかる。
親戚はその病を気味悪がり、彼を放り出す。
幼くしてのたらい回し。
圧倒的な孤独が心を蝕んだ。
福岡の高等小学校を卒業したあと、愛媛に戻る。
銀行の下働きをするが、給料はほんのわずか。
出入口も裏口しか許されず、みじめだった。
母は、タンスを開けては、明日買う米代がないと泣いた。
丸山は学業が優秀だったが、進学など口に出すことはできない。
気づけば、醜く貧しい自分がいるばかりだった。
彼の唯一の楽しみは、昼飯を1週間我慢して貯めたお金で見る、活動写真。
見ている間だけは、全てを忘れることができた。
さらに彼の心をとらえたのは、京都で見た新劇だった。
息遣い、声、動き、全てがリアルで、衝撃が走った。
「自分がそのままでいい…これこそ、人間の仕事だ」
初めて新劇を見た丸山定夫は思った。
「僕も、観る側ではなく、いつかあんなふうに舞台に立ってみたい」。
広島で、ある劇団が立ち上がるという噂を聞いた。
「青い鳥歌劇団」。
着の身 着のままで、広島に向かう。
「お願いです、なんでもします! 劇団に入れてください!」
団長は、不思議な雰囲気をまとう青年の入団を許した。
丸山は言葉どおり、なんでもやった。
飯炊き、風呂の火起こし、使い走りから、下足番まで。
大雨の日には、はだしで役者の下駄を運び、大量の雨傘を背負った。
小さい頃の苦労に比べれば、なんでもない。
好きな場所にいられる。その幸せのほうが勝っていた。
団長はそんな丸山を可愛がり、やがて、端役ながら役を与えた。
役と言ってもたったのひとこと、時には、ただ銅鑼を叩くだけ。
それでも丸山は嬉しかった。舞台の上に、自分の居場所があった。
そして…彼は気づく。
自分みたいに、辛い現実に日々くじけそうになっているひとがいて、でも、たった一本の芝居で生きる希望を持てたりすることがあるんじゃないか。
丸山は、かつての自分を救うように、誰かを救いたいと願った。
丸山定夫は、世の中がどう変わろうが、誰に誹謗中傷を受けようが、演劇という居場所を手放すことはなかった。
彼は知っていた。
芝居は、空腹を満たすことはできない。
でも、食事代を耐えて舞台に心を委ねることで、自分を支えることができた経験は、絶対だった。
ほんとうにやりたい新劇のために映画に出て、仲間から、魂を売ったと揶揄されることもあった。
それでも最後は、観客の前で、生で演じる演劇に戻ってきた。
移動演劇さくら隊で、広島に滞在し、被爆。
筆舌に尽くしがたい痛みの中、なんとか10日間生き延びて玉音放送を聴いた丸山定夫は、骨と皮だけに痩せ細りながら友人に言った。
「僕はこんなに駄目になってしまった。しかし、また芝居の出来る世の中になったんだね。ねえ、お願いだよ、2年、そう、2年待っておくれ。この体を治して、きっと、きっと、いい芝居をやってみせるよ」
享年44歳。
彼は最期の瞬間まで、続けることを諦めなかった。
【ON AIR LIST】
HEART AND SOUL / Joy Division
COME AS YOU ARE / Nirvana
風の中の羽根のように(女心の歌)(歌劇『リゴレット』より) / ヴェルディ(作曲)、ジョン・健・ヌッツォ(テノール)
終わらない歌 / THE BLUE HEARTS
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