第三百八十二話負けることを知りて、勝つ
徳川家康(とくがわ・いえやす)。
1603年の江戸開府から始まった徳川幕府は、世界的にも例を見ない安定した政権で、260年以上、平和を保ちました。
織田信長や豊臣秀吉が、領土拡大、海外出兵を第一に掲げたのとは対照的に、家康は、旗印にこう書きました。
『厭離穢土欣求浄土』(おんりえど・ごんぐじょうど)。
意味は、「この世は地獄のようなものだけれど、それを極楽浄土に変えていこう」。
先祖からの教えを貫き、万人の民が平和に暮らせる世の中を願ったのです。
また、家臣を大切にしたことも有名で、三河出身の家臣で構成された、三河武士の忠誠心は絶大。
家康のピンチをことごとく救いました。
秀吉に「家康、おまえが持っている最高の宝はなんだ?」と聞かれて、こう答えたと言います。
「私にとって一番の宝は、私のために命をなげうつ武士500騎でございます」
では、家康は、一点の曇りもない、誰からも尊敬される聖人君主だったのでしょうか?
家康の裏の顔を示す言い伝えも、数多くあります。
何を考えているのかわからない「たぬきオヤジ」。
策略家で冷徹、表面では笑い、心は氷のよう。
信長や秀吉のようなスター性、カリスマ性が少なく、地味で平凡。
屈辱を受けても、ただひたすら耐えるだけ…。
しかし、そんな家康の影の側面にこそ、彼が誰も成し遂げられなかった、長きに渡る天下統一を成し遂げる礎があったのです。
家康を天下人に押し上げた原動力。
そこには、二つの大きなコンプレックスがありました。
ひとつは、物心ついた頃から18歳になるまで、人質として暮らしたこと。
もうひとつは、三方ヶ原の戦いで、武田信玄に敗れたこと。
負けることで勝つことを知った戦国時代のレジェンド。
徳川家康が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
徳川家康は、1542年12月26日、三河国、岡崎城城主・松平広忠(まつだいら・ひろただ)の嫡男として生まれた。
松平家は、現在の愛知県豊田市を中心として栄え、岡崎城を本拠として三河国統一をはかっていたが、尾張の織田氏が台頭。
その勢いは、松平家を脅かす。
岡崎城に近い、安城城が織田氏によって落ちたのを見た城主は、すぐさま、今川義元(いまがわ・よしもと)に服従することを選択。
織田氏に対抗しようとした。
その証として、6歳になったばかりの家康は、今川家の人質になる。
まだ甘えたい盛りの子ども。
親から引き離される。
現在の愛知県岡崎市から、静岡県静岡市までの道中。
今川の駿府城まですんなり行くはずだったが、途中、アクシデントが起こる。
家臣が松平家を裏切り、家康は、今川ではなく尾張の織田家におくられてしまう。
那古野で家康は軟禁状態。怖かった。
幼くして、死を感じる。
親に捨てられ、誰も自分を守ってくれない状況。
ただひたすら泣いた。
結果、予定どおり駿府城に行くことになるが、那古野での囚われの時間が心と体に刻み込まれた。
「ボクは、この世にいらない人間なのかもしれない」
徳川家康の幼少期の人質時代。
所説あるが、決して不自由なことばかりではなかった。
相次いで父も母も亡くなったことを知り、寂しさに落胆するが、岡崎城の世継ぎとして大切に教育を受けた。
中国の古典や、臨済宗の僧侶による説法。
さらには、弓道、馬術、剣術など、天下人になるべく帝王学は惜しげもなく注がれた。
幼い家康に、それらを拒否する権限はない。
ただ、それらを享受し、咀嚼し、自分の養分に変えていった。
負けず嫌いで短気。
剣術も、思うようにできないと、泣き叫びながら、相手にくらいついた。
ある夜、城の中庭で月を見ながら思う。
自分は、ここで生きていくしかない。
どこにも帰るところはない。
ならば、ここで成果を出さねば、生きている価値がない。
あそこにいればもっと自分はやれる、あの場所なら自分は力を発揮できる、そんな考えではダメだ。
今いる場所で、今いる環境で、結果を出さないかぎり、自分に明日は…ない。
徳川家康は、幼少期から青年期まで、今川義元のもとで暮らす。
元服、結婚。
初陣では結果を出した。
当初、岡崎城に戻されるはずだったが、義元が家康を手放さない。
駿府に留まる。
しかし、歴史はここから大きく動く。
桶狭間の戦い。
今川は、織田軍に敗北をきす。
こうして、家康は岡崎城に帰還。
やがて織田家につく選択をする。
家康は、当時、今川義元の、元という字をもらって元康と名乗っていたが、22歳のとき、元の字を捨て、家康と名乗ることにした。
それは、人質時代へのリベンジ、決別でもあった。
家康は、三河の地を平定。
ますます織田家に信頼を受ける。
そうして迎えた三方ヶ原の戦い。
相手は、宿敵、武田信玄。
越後の上杉謙信と同盟を結び、徹底抗戦。
でも、負けた。
武田は、強かった。
浜松城に逃げのびるが、たくさんの大切な家臣を失う。
家康は、このときの敗北を忘れないように、最も情けない自分の姿を絵に画かせた。
『顰像』(しかみぞう)。
この敗北には、たくさんの教訓がある。
それを思い切り後悔するために、絵を自分がいつも目に入る場所に飾った。
負けることがダメなのではない。
負けることから何を学ぶかが大事。
人質時代、情けない自分から何を得るかが大切。
負けることに向き合った徳川家康は、誰も成し遂げない偉業をこの世に残した。
【ON AIR LIST】
WHEN YOU'RE DOWN (FUNKY MAMBO) / Joe Bataan
BLUE CHRISTMAS (Live) / Norah Jones
HERE TODAY AND GONE TOMORROW / Ohio Players
I'M A LOSER / The Beatles
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