第百二十四話全力で投げ込む
そのほぼ正面に位置するのが、明倫商店街です。
この商店街で生まれた、伝説の野球選手がいます。
球速160キロにも及ぶ剛速球でベーブ・ルースを三振にとり、巨人軍創成期のエースとして活躍、27歳で戦争に散った悲劇のヒーロー、沢村栄治。
その背番号『14』は、今も永久欠番として語り継がれ、毎年素晴らしい投手に贈られる「沢村賞」という名誉ある賞に、その名を留めています。
昨年2月1日。沢村栄治の生誕100周年を記念して、商店街に記念碑が置かれました。
その石は、地元の子どもたちの公募により、「全力石」と名付けられ、沢村のこんな言葉が刻まれています。
「人に負けるな。どんな仕事をしても勝て。しかし、堂々とだ」
残念ながら決して賑やかとは言えない昭和の名残りを残す商店街に、この日ばかりは活気が戻りました。
身長は170センチあまり、決して恵まれた体格ではなかった沢村のトレードマークは、大きく左足を上げて投げ込む投球フォームです。
「わしは、真っすぐが好きや」
その言葉どおり、いつも直球勝負。全力投球で相手に向かいました。
昭和9年に行われたアメリカとの交流試合で三振したメジャーリーガーの英雄、ベーブ・ルースは、ベンチに帰ると、片隅にあったバケツを蹴ってこう言ったと言います。
「あんな球、見たことない!まるで生き物のように、手元でふわっと浮くんだ。打てないよ!あんな球!なんてサムライなんだ、サワムラってやつは!」
初めてアメリカ野球に日本人魂を見せつけた男、沢村栄治が、その短い人生でつかんだ明日へのyes!とは?
元巨人軍のエース、戦前の野球界にいくつものレジェンドを残したピッチャー・沢村栄治は、1917年2月1日に現在の三重県伊勢市に生まれた。
実家は、明倫商店街で「小田屋」という青果業を営んでいた。
朝暗いうちから野菜や果物を仕入れに出かける父。野菜を冷たい水で洗う母。
愚痴ひとつ言わず働く両親を見て育つ。
栄治は身体が弱く、痩せて小さかった。
ひとの出入りが多い環境。なかなかかまってやれない状況。
母は思い切って、栄治を実家に預けた。
両親と暮らせない寂しさはあったが、栄治はたちまち元気になった。
やっと両親のもとに帰り、明倫小学校に入学。
そこで、運命的な出会いをする。
小学4年生のとき、栄治は、校舎の隅で野球をする上級生を見ていた。
東京から赴任してきた片岡という教師が声をかける。
「キミは、野球が好きか」
栄治は答えた。
「はい」
「なら、一緒に来い」
片岡は、いきなり栄治を引っ張っていった。
内向的で目立つのが嫌いだった栄治は、もじもじしている。
「野球部をつくる!私が顧問をやる片岡だ。今から全員とキャッチボールをする。思い切り、投げ込んでくれ!」
実は、栄治は父親から野球を教わっていた。
引っ込み思案の彼はそれを人前で披露できないでいたのだ。
栄治の球を受けた片岡は、驚いた。
「な、なんだ、この子の球は。痛い…キャッチした手がじんじん、痛い」
この一球が、伝説の始まりだった。
沢村栄治の野球人生は、順調に進んでいた。
伸びのあるストレートは、桁外れ。
少年野球の大会で優勝を呼び込み、京都商業に進んだ。
昭和8年には、春の選抜大会に出場。
1回戦、2回戦と完投勝利をおさめるが、準々決勝では味方の援護がなく、2対1で惜敗した。
この頃から、沢村の球を受けるのをキャッチャーが嫌がった。
あまりに強い球に、怖れをなしたのだ。
でも、山口千万石(やまぐち・せんまんごく)という捕手だけは、沢村の球を受け続けた。
「沢村の直球は、たまらんわ」
彼の左手の人差し指は、快速球のために、関節が曲がってしまった。
それでも山口は、沢村の投げ込む球が大好きだった。
沢村が亡くなったあとも、変形した左手が自慢だった。
「これはなあ、栄ちゃんの形見なんや」
昭和9年10月。アメリカ大リーグ選抜チームと闘う全日本のメンバーに、沢村栄治の名前があった。
沢村は、できれば京都商業を出たあと、慶応大学に進みたかった。
でも、巨人軍に口説かれる。
さらに、家業の青果店の売り上げが思わしくなかった。
「さんざん世話になった両親を、わしの右腕で楽させてあげたい」
京都商業を中退。でも、この決断が、沢村の父を後悔の渦に突き落とすことになる。
大リーグとの戦いは、さんざんだった。
日米の野球のレベルの違いは明らか。スタンドで応援するファンもがっかりした。
しかし、驚く光景が待っていた。
無名の17歳の投手が、大リーグの名選手たちを三振に切り捨てていく。
湧いた。スタンドが湧いた。
プロ野球選手になった沢村栄治の快進撃は止まらない。
防御率、0.81。ノーヒットノーラン。
プロ野球史上初のMVPを獲得。しかし、戦争の波が彼を押し流す。
日中戦争に従軍。ひたすら手りゅう弾を投げさせられた。彼の肩はボロボロになる。
しかも、左手を銃弾が貫通。マラリアにも感染した。
なんとか帰国して野球を続けようと思ったが、思うように右手があがらない。
以前のオーバースローはできなかった。
凡人なら、そこで諦める。でも、彼は違った。
サイドスローを練習。高く上げられないなら、横から投げればいいと思った。
彼はサイドスローでノーヒットノーランをやってのけた。
そんな矢先、またしても赤紙が来た。
彼の右腕は、もはや、思うように動かなくなっていく。
1年あまりを軍隊で過ごし、またしても復帰。
サイドスローがダメならアンダースローで行くと決めた。
父は涙を流した。
「栄治、おまえがもし大学に行っていたら、こんなに何度も赤紙はこなかった。すまなかった、栄治。父さんが情けないから、おまえはプロになって…」
でも、沢村は父に言った。
「違うよ、父さん。これはな、わしが選んだ道なんや。わしはな、真っすぐが好きなんや。真っすぐ投げ込むんが好きなだけなんや」
現役を引退して、またしても戦地へ。
フィリピンに向かっていた船が屋久島沖で撃沈され、帰らぬひとになった。
彼は、いつも全力で投げ込んだ。どんなときも三振をとるつもりで投げ続けた。
彼の言葉が、今も響く。
「人に負けるな。どんな仕事をしても勝て。しかし、堂々とだ」
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