第二百五十七話夢を諦めない
東海林太郎(しょうじ・たろう)。
丸いロイド眼鏡に、燕尾服。
最大の特徴は、直立不動で歌う姿。
彼の雄姿を後世に残そうと、秋田市は今年、「東海林太郎直立不動像」の建立を計画しています。
もともと県民会館に胸像はありましたが、今度は旧県立美術館前、千秋公園に向かう通り沿いに建てる予定です。
現在放送しているNHKの朝の連続テレビ小説は、名作曲家・古関裕而がモデルですが、東海林太郎も同じ時期を生きた同志。古関作曲の歌を歌っています。
紫綬褒章を受け、紅白歌合戦には4度出場、『赤城の子守唄』や『国境の町』などのヒット曲にも恵まれた東海林太郎ですが、実は、デビューしたのが35歳。
それまで南満州鉄道のサラリーマンをやったり、中華料理店を営んだ経験を持つ、遅咲きのひとです。
どうしても歌手になる夢を諦めきれなかった苦労人。
それだけに、歌に対する情熱は、すさまじいものがありました。
レコードに吹き込む録音の前には、何度も何度も歌詞を毛筆で書いたそうです。
「私は、歌の意味が知りたいのです。歌詞の後ろに鎮座している魂を理解したいのです。歌は、言葉が届かないと意味がありません。最高の形で言葉を届けるには、それなりの覚悟がいるのです」
歌の背景を体感するために、歌詞の舞台になっている場所に足を運び、文献を読み説き、納得ができるまで声を発することはなかったと言われています。
常に東京 神田 神保町の古本街に通い、歌詞のたったひとつの言葉も逃さない努力をしたのです。
当時、作詞家先生に意見できる歌手は、東海林の他、いませんでした。
彼はステージでファンから握手を求められても、断りました。
「ステージは命がけの真剣勝負の場所なんです。そこで握手なんて、考えられません」
愚直に、真摯に歌に向き合い続けた伝説の歌い手・東海林太郎が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
昭和を代表する歌手・東海林太郎は、1898年、明治31年12月11日、秋田県秋田市に生まれた。
父は、秋田県庁に勤めるエリートだったが、退職。
太郎が小学4年生のとき、母と二人で満州に渡っていった。
残された太郎は祖母と秋田で暮らす。
成績は優秀。
音楽と体育の時間が好きだった。
唱歌を歌い、先生に褒められる。
千秋公園の松の樹にのぼり、大海原を見ながら歌を歌った。
「この海の向こうには、お父さんとお母さんがいるんだ…」
両親に届けとばかり、必死に歌う。
歌っているときだけ、父や母がすぐ近くにいるように感じられた。
ある日、友だちの家に遊びにいくと、バイオリンがあった。
貸してもらう。
必死に独学で練習すると、友だちよりうまくなった。
大連にいる父に「バイオリンがほしい」と懇願。
数週間後、大きな包み紙が届く。
「うわあ、バイオリンだ!」
喜び勇んでばりばりと包みを開けると…空気銃が入っていた。
「音楽なんかにうつつを抜かす暇があったら、これで野生の鹿でも射止めなさい」
父の手紙を読み、がっくりと首をうなだれた。
秋田中学卒業後、おそるおそる東京音楽学校、現在の東京藝術大学への進学を口にするが、やはり父の逆鱗に触れ、断念。
早稲田大学商学部予科に進む。
大学の研究科に在籍しているとき、同じ秋田出身の女性と出会う。
彼女こそ、のちに東海林の妻になる庄司久子。
久子は、東京音楽大学の声楽家出身だった。
東海林太郎は、何度も音楽への夢を断たれた。
同じ秋田出身で『浜辺の歌』の作曲で知られる成田為三は、早くから東海林の歌の才能を知り、師匠の山田耕筰に紹介しようとしたが、父親の反対に遭い、断念。
大学在学中、友人にドイツ留学をすすめられるが、叶わず。
結局、両親がいる大連に渡り、満鉄に入った。
異国にいても、音楽への夢は手放さなかった。
妻の久子は、大連の子どもたちにピアノや声楽を教える。
家にはいつも音楽があふれていた。
音楽に触れれば触れるほど、声楽、歌の道で生きていきたいという思いが募る。
子どもも生まれ、このままサラリーマンを続けながら、音楽を趣味として生きていく道もあるのかもしれない。
妻も言葉にはしないが、それを望んでいるのがわかる。
でも…いいのか、私は本当にそれでいいのか…。
死ぬ時、それで後悔しないか…。
妻の音楽教室の手伝いをする、渡辺シズという女性がいた。
シズは、東京音楽学校でバイオリンを専攻。
東海林とバイオリンの話で盛り上がる。
東海林は、シズの言葉に背中を押された。
「太郎さん、あなたは歌を捨てたりなんかしちゃダメだと思います。そこまで音楽に身を投じたいのなら、私が応援します」
東海林太郎と渡辺シズの関係を知った妻は、子どもと共に日本に帰ってしまう。
音楽への夢を実現するため、満鉄を辞め、シズと音楽のレッスンに明け暮れる。
経済的に苦しくなり、帰国。
弟と中華料理店を開くが、失敗。
何度も声楽家への道を諦めようと思う。
酒におぼれた時期もあった。
でも、どんなときも音楽に助けられる自分がいた。
シズにすすめられて、時事新報社主催の音楽コンクールに応募。
見事、入賞を果たした。
歌手、東海林太郎は、「一唱民楽」、たったひとつの歌で国民を楽しませる、という言葉を座右の銘とした。
これは、宮本武蔵の「一剣護民」を真似たもの。
全てのステージが、真剣勝負だった。
直立不動には、訳がある。
ずっと歌手になりたかった。
たくさんのひとを悲しませ、夢のために捨てたものもあった。
だからこそ、手は抜けない。
歌に全身全霊を込め、空気を震わせる。
遠い海の向こうにいる両親に歌った、あのときのように。
【ON AIR LIST】
国境の町 / 東海林太郎
赤城の子守唄 / 東海林太郎
わたしは嘆くまい(『詩人の恋』より) / シューマン(作曲)、ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ(バリトン)
母に捧ぐる歌 / 東海林太郎
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