第二十四話切り込む力
その妻、白洲正子もまた、伝説の女性でした。
伯爵家の次女として生まれた正子は、ある意味で、夫次郎に負けるとも劣らない行動力と、強いプリンシパルを持ったひとだと言えるかもしれません。
正子の父方の祖父は、薩摩出身の軍人にして政治家、樺山資紀。
戊辰戦争や台湾出兵に参加し、警視総監や陸軍大臣を歴任した生粋の薩摩人でした。
ここに一枚の写真があります。
永田町の自宅の庭で、祖父、資紀の膝に抱かれる5歳の正子が写っています。
軍服にサーベルを下げ、椅子に座る祖父。
彼の帽子を手に持ち、カメラをにらむように見据える、白いワンピース姿の正子。
その真っ直ぐで大人びた眼差しは、後の正子の運命を暗示しているように思えます。
正子はおそらく、薩摩人である自分を意識していたのでしょう。
彼女にはただ単に、勝気、負けず嫌いでは片づけられないひとつの流儀がありました。
決めたことをやりぬく。欲しいものには粘り強くくらいつく。
その壁が高ければ高いほど、挑む。誰も入ったことのない場所に切り込む。
だからこその、伝説。それゆえの、唯一無二。
ただのお嬢様に留まらなかった彼女を突き動かした、心の中のyesとは?
随筆家、白洲正子は、1910年1月7日、東京に生まれた。
4歳のときに、能を習う。
それから10年後、14歳で、女性として初めて能の舞台に立つ。
女人禁制だった能楽堂。
そこで舞うために、彼女は常人では計り知れない努力をいとわなかった。
やるならとことんやる。面白そうだと、のめりこむ。切り込む。
能を舞うために、笛、鼓、太鼓など、お囃子まで勉強した。
後日彼女は語っている。
「お囃子をやってみて、わかった。知識なんて舞うことの役に立たない。舞うってことは、そのひとの間だから。自分には自分の間があって、それだけでいい。自我はいらない、自己がいるの」
自分を見せびらかす自我ではなく、自分がどうしたいのかという自己が重要。
白洲正子は、能を通して、自己表現とは何かを学んでいったに違いない。
切り込んで、ぶつかって転んで初めて見えてくる自分。
自己発見こそ、生きる醍醐味だ。
学習院初等科を卒業後、アメリカに渡り、ハートリッジ・スクールに入学、卒業して帰国。
19歳で白洲次郎と結婚する。
お互い、ひと目ぼれだった。
一筋縄ではいかない次郎だからこそ、正子は迷わなかった。
戦火を逃れ、鶴川村、現在の町田市に引っ越して、のんびりした生活をおくると思いきや、彼女の中のあふれる情熱は立ち止まることがなかった。
そこに、人生を左右する出会いが待っていた。
戦後、白洲正子は、評論家の小林秀雄、装丁家で美術評論家の青山二郎と出会う。
文学や骨董の世界の扉が開かれる。
なんとか彼らの友情の中に入りたくて切り込む。
男同士の友情に嫉妬を覚えた。
「オレたちとつき合うなら、酒くらい飲めよ」と小林に言われ、「ったくもう、何にも知らないお嬢ちゃんだな」と青山にけなされ、それでも正子はくじけなかった。
飲めない酒をあおり、必死に勉強した。
そのせいで、3度の胃潰瘍。血を吐くこともあった。
つき合い方は破天荒。壮絶だった。
小林も青山もやがて、そんな正子を認めるようになった。
ついたあだ名が『韋駄天お正』。
自ら行動しないと気が済まなかった。
自分の目で見て、五感で確かめたものしか信じない。
それは随筆の執筆にも徹底された。
銀座に染色工芸の店も開き、往復4時間を毎日通った。
朝から晩まで動き続け、自らの想いや体験を文章にぶつけた。
白洲正子は振り返る。
「私は、不機嫌な子供でした。今で云えば、自閉症に近かったのではないでしょうか。3歳になっても、ほとんど口をきかず、ひとりぼっちであることを好みました」。
おそらくそれは鋭い感受性。
おそらくそれは誰よりも強い衝動を抱える恐れ。
だからこそ、自分を抑えた。
でも、4歳で能に出会い、彼女の自己が解放された。
解き放たれたら、もう止まらない。もう抑えない。
正子は、走った。まるで泳ぐのをやめたら死ぬサメのように。
70を超えて、親しいひとの死に直面する。
青山二郎、小林秀雄、そして、最愛の夫、白洲次郎。
それでも、正子は歩みをやめない。
80にして、能楽師、友枝喜久夫を追いかけ、舞台を食い入るように見つめた。
好きな骨董を探し日本中を奔走した。
旺盛な執筆活動は名作を生んだ。
彼女は、頭で考えることよりも、運動神経を信じた。
自分が今、何をしたいのか、それを見つけるためにはどう動いたらいいのか。
常に切り込む力が彼女を突き動かした。
正子は自分が知りたかった。
自分が何者なのかを知るために、走り続けた。
「私は自分を発見することで、透明な心を得たいと思った」。
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