第百六話垣根を取り払う
『写真家 チェ・ゲバラが見た世界』。
キューバ革命の立役者、チェ・ゲバラは、革命家であるとともに、文筆家であり、写真家でした。
その写真展の中で、ひときわ多くのひとが集まる写真。
それは、ゲバラが31歳のときに撮影した、広島の原爆ドームです。
遠景の中央に位置する原爆ドームは、一見、風景の一部に溶け込んでいるようにも見えますが、ゲバラの特別な思いが感じ取れます。
アルゼンチンの裕福な家庭に生まれたゲバラは、中南米を友人とまわるうちに、この世界の格差や貧困に直面します。
フィデル・カストロと、キューバ革命を牽引。
1959年に、革命政権の樹立に成功。
さらにボリビアで革命を起こそうと戦っているとき、つかまり、銃殺されてしまいます。享年、39歳。
そのゲバラは、革命を成功させた年に、日本を訪れました。
目的は、キューバの砂糖を日本に輸入してもらうための交渉です。
最大の輸出先であったアメリカから拒否されてしまったので、新しい取引先に日本を選んだのです。
東京、大阪、愛知と各地を訪問。
主に見てまわったのは、工場でした。
戦後の日本の目覚ましい復興を目の当たりにしたゲバラは驚きを隠しませんでした。
本来なら、神戸での視察を終えて日本を発つはずでしたが、彼が突然言ったのです。
「広島に行って、ぜひ原爆慰霊碑に花を手向けたい」。
彼は資料館に寄ったとき、近くにいた日本人にこう聞いたと言います。
「君たち日本人は、アメリカにこれほどひどい目にあわされて、腹が立たないのですか?」
彼の瞳は深い海のように澄み切っていたそうです。
ゲバラは祖国の妻への絵葉書に書きました。
「広島を訪れて思った。自分は平和のために断固として戦わなければならない」。
革命家チェ・ゲバラが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
革命家チェ・ゲバラ。
本名、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナは、1928年6月14日、アルゼンチン、ロサリオに生まれた。
チェとは、アルゼンチンでよく使われる、親しみを込めた「やあ」とか「お前」という意味。
キューバのひとたちは、「チェ、ゲバラ」すなわち「やあ、ボクの名前はゲバラだよ」と挨拶する彼の言葉を面白がり、彼を「チェ・ゲバラ」と呼び、その名が愛称になったと言われている。
ゲバラの家は、裕福だった。
父は、建築技師、祖父は、アルゼンチンの独裁政権と闘った勇士だった。
母も地元の名士。マテ茶の農園を持っていた。
ゲバラは、2歳からひどい喘息を患った。
いつ死んでもおかしくない状態。
父は幼いゲバラを抱きしめ、ベッドの隣で仮眠する日々が続いた。
父のブエノスアイレスでの事業は、ようやく軌道にのっていた。
でも、愛する息子の持病。
都会で成功するか、空気のいい田舎に引っ越すか。選択が迫られた。
両親に迷いはなかった。コルドバ山脈のふもとに引っ越す。
その町には、スペインからの移民も多く、貧富の差が激しかった。
経済的な階層が露骨に住人の生活を規定した。
裕福な子どもは、裕福な子どもとしか遊んではいけない、そんな風潮が当然だった。
でも、ゲバラの父は違った。
「いいか、エルネスト、友達の両親が何をしていようがいまいが、そんなことは関係ない。どんな仕事をしていても、お金持ちでも貧乏でも、我が家では誰でも大歓迎だ」
父はさらに、息子にブドウの収穫のアルバイトを勧めた。
当時、ひどい扱いを受けていた農民の暮らしを知ることは、彼にとって世界を知る機会になった。
ゲバラには、たくさんの友達ができた。
彼はいつしか、仲間のリーダーになっていった。
革命家チェ・ゲバラは、リベラルな家庭に育った。
幼いゲバラが、裕福な家の友達の誕生会に招かれた。
場所は街イチバンの高級ホテル。
着飾った娘は、ゲバラの汚い恰好を見て、叫ぶ。
「靴磨きを呼んだ覚えはないわ!」
実際、ゲバラの服装はドロドロだった。
そこにいた裕福な家の子どもたち全員が彼をののしった。
怒ったゲバラは、ひとりで彼らに立ち向かった。
パーティーは大騒ぎ。ホテルは混乱に包まれ、父が呼ばれた。
しかし、呼ばれた父も事の次第を知り、逆上。
ステッキを振り回してあばれた。
息子と一緒に、ホテルからつまみ出されてしまった。
ゲバラは、教師にも闘いを挑んだ。
子どもの尻を叩くのを生きがいにしている教師が許せない。
わざと怒るようなことをして、尻を叩かれる機会をつくる。
いざ、そのとき、彼は尻にレンガを隠し、教師の手は大きく腫れ上がった。
教師は二度と、子どもの尻を叩くことをしなくなった。
空気のいいところに引っ越したことで、喘息はなりを潜めたが、ときどき彼を苦しめた。
それでも彼は野山を走り回り、スポーツを愛した。
たとえ、死にかけても全力で走る彼の姿に、みんなが心うたれた。
幼くして死を覚悟したものだけが持つ、虚無と情熱。
ひとは、命が限りあるものであることを時々、忘れてしまう。
でも、チェ・ゲバラは、忘れたくても忘れられなかった。
今度の発作で自分はこの世からいなくなってしまうかもしれない。
そう思うと、誰かの役に立ちたい、この世に生きた証を残したいと、焦った。
彼の覚悟は、ひとびとを感動させ、やがて彼は指導者の道を進むことになった。
革命家チェ・ゲバラの母もまた、強烈な個性の持ち主だった。
とにかく、学ぶことを重んじた。母は言った。
「価値ある人間になるために、人はみな、勉強しなくてはなりません。学ぶことをやめたとき、人は自らの価値を放棄するのです」。
ゲバラ、13歳の夏。
ハイスクールの学期が始まる前に、彼は両親に言った。
「ねえ、パパ、ママ。ボクはね、いろんなことをこの目で見にいきたいんだ。ひとりで、国内を旅したいんだけど、いいかな?学校が始まる前には、必ず帰ってきますから」。
フツウであれば、大反対だったろう。
しかし、両親は反対するどころか、我が息子を抱きしめて言った。
「いいでしょう。あなたのその気持ちを尊重します」。
こうしてゲバラ最初の放浪の旅が実現した。
木の下で眠り、農園で働き、食事を得た。
祖国アルゼンチンをまわりながら、さまざまなことを感じた。
ラテン・アメリカが抱く矛盾。貧富の差。労働者が報われない現実。絶えない争い。
「どうして、平等や平和が、こんなにも簡単に手に入らないんだろう。人間とはいったい何なんだ」
以来、文学や哲学にものめりこんだ。
革命なんて大それたことをしたいわけじゃない。
ただ、やがて消え去っていく命を、みんな、もっと大切にしてほしい。慈しんでほしい。
革命家チェ・ゲバラが、交渉のために訪れた日本で唯一、予定外で訪れた場所。
それが広島だったことに、意味があった。
同じ過ちを、犯してはならない。
平和や平等は、強い意志がないと守れない。
ゲバラの思いは、今も心に突き刺さる。
【ON AIR LIST】
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