第二百二十四話信念は曲げない
緑豊かな明治神宮外苑の景観に配慮して、高さをおよそ47メートルに抑え、「杜のスタジアム」を具現化。
ドーナツ形の屋根には国産の木材を使用し、コンコースや競技場周辺にも、およそ4万7000本の木々が植えられています。
壮麗な建物を見ていると、東京でのオリンピック開催がいよいよ現実的なものに思えてきます。
初めての日本でのオリンピック開催となった1964年の東京オリンピック招致に生涯を捧げたひとがいます。
大河ドラマの主人公にもなっている、田畑政治(たばた・まさじ)。
その猪突猛進、直情径行な行動は、ときに周囲との軋轢を生みましたが、彼は自らの歩みをやめることはありませんでした。
第二次世界大戦後初めてのロンドンオリンピック。
敗戦国日本は、オリンピックへの参加を拒否されます。
「政治とスポーツは、別じゃないのか!?」
日本水泳連盟の重鎮だった田畑は怒りをあらわにしました。
「だったら、ロンドンと同じ日程で全日本選手権をやって、日本の水泳の凄さを見せてやる!」
当時、GHQに摂取されていた神宮外苑プールを借り受け、まるで喧嘩を売るように開催してしまうのです。
結果は、自由形で古橋廣之進(ふるはし・ひろのしん)が、ロンドンでの金メダルのタイムを大幅に上回り、世界新記録で優勝。
このニュースはすぐに世界に知れ渡りましたが、イギリスの反応は冷たいものでした。
「日本のプールは狭かったんじゃないか?」
「ストップウォッチが壊れていたんだよ、きっと」
田畑は、ここでも一歩も引きません。
「だったら、ここ東京でオリンピックを開催して、日本の水泳が本物だってことを証明してみせる!」
激動の時代を生き抜き、見事東京にオリンピックを持ってきた風雲児、田畑政治が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
日本にオリンピックを持ってきた男、田畑政治は、1898年12月1日、現在の静岡県浜松市に生まれた。
家は、江戸時代から続く造り酒屋。
地元でも1、2を争う豪商だった。
広い屋敷に、たくさんの使用人。
田畑は、何不自由なく、のびのびと育つ。
ただ、短命の家系。
父も祖父も若くして亡くなった。
田畑も幼い頃から体が弱かった。
ただ、好奇心旺盛に走り回る。
せっかちな性分で、食事は誰より速くすませる。
「もっとよく噛んで食べなさい」と母に叱られても、言うことをきかない。
すぐ、お腹を壊す。
医者には、こう言われていた。
「この子は、おそらく30歳まで生きていないだろうねえ」
細く、小さな体。
案じた母が医者に相談すると、「どこか空気のいいところで暮らすのがいちばんだが…」と言われた。
母は、別荘がある弁天島に行くことに決めた。
目の前には遠州灘。
当時は結核の転地療養の場所として有名だった。
そこで、田畑は水泳に出会う。
海に入ると、ワクワクした。
どこまでも泳いでいけそうな気がする。
泳いだ。
朝から夕暮れまで、気がつけば海に入っていた。
母と医者が話すのを聞いてしまった。
「ボクは、長く生きられないんだ…」
泳いでいるときだけは、死がどこかに消えてなくなった。
あまりに水泳に熱中するので、母が泳ぐのをとめても、田畑は泳ぐのをやめなかった。
彼の中で、泳ぐことが生きることとつながっていた。
田畑政治は、幼い頃から海に親しんだ。
やがて同じ年の子どもの誰よりも長い距離を泳げるようになっていた。
湖と海が交じり合う場所は、流れが速い。
友だちに危ないと言われると、かえって挑戦したくなる。
天性の負けず嫌い。
当時の水泳は、水術と言われ、武術のひとつ。
隊列を組んだり、服のまま泳いだりした。
クロールという泳法は、まだ知られていなかった。
中学に進む頃、ようやく、泳ぐ速さを競う、スポーツとしての水泳が広まっていった。
水泳部に入った田畑は、誰よりも速く泳ぐことができる。
みんなから褒められ、さらに練習に熱が入る。
それは、中学4年のときだった。
突然の耐えられないほどの腹痛。
慢性虫垂炎と大腸カタルを併発していた。
田畑は病気を治して、早く水泳がしたい。
しかし、医者は怒った。
「水泳はダメだ。そんなことをしたら、腸結核になってしまう。安静にしていないと、命が危ないんだ!」
ずっと忘れていた不安がやってくる。
「そっか…ボクは、30歳まで生きられないかもしれないんだ」
母も泣いてとめた。
田畑は、泳ぐことを断念せざるをえなかった。
それは、生きるための両翼をもがれるほど辛いことだった。
田畑政治は、水泳選手としての道を断たれた。
でも、泳ぎたい…。どうしても足が、海に向いてしまう。
防波堤に腰掛けて、同級生が泳ぐのを見ていた。
ふと、何かが気になる。
泳ぎ方だ。
もっと腕を前に伸ばせばいいのに、もっとキックを大きく、強くすればいいのに…。
海からあがった友だちに助言してみる。
あっという間に綺麗な力強い泳法に変わった。
「すごいねえ、田畑くん、もっと教えてくれよ」
評判が評判を呼び、彼に教えを乞う仲間が増えた。
やがて、田畑は思うようになる。
「水泳選手になれなくても、水泳に関わる道があるのかもしれない」
道が決まれば、もう迷わない性格。
自分がいる浜松中学を水泳で日本一にしたい!
「泳げ!泳げ!」と部員を鼓舞して、日本一に導く。
今度は、自分の命を育んでくれた浜名湾の水泳を日本一にしたい!
浜名湾游泳協会を設立し、これも実現。
一度思った信念や、願った目標は曲げなかった。
やがてベルギーで開かれた第7回アントワープ・オリンピックで、彼は衝撃を受ける。
日本の水泳は全く歯が立たない。
そのとき、誓った。
「いつか、日本人スイマーが金メダルをとるまで、がんばる」。
そしてのちに田畑は思う。
「いつか、東京にオリンピックを誘致しよう」
海は、生きる力をくれた。
水泳は、弱い自分を鍛えてくれた。
泳ぐことに人生を捧げ感謝した男は、レジェンドになった。
彼は生涯、忘れなかった。
ふるさとの海で初めて泳いだときの心のふるえ、潮風、そして、真っ赤に世界を変える、希望という名の夕陽を。
【ON AIR LIST】
東京五輪音頭 / 三波春夫
スイマー / ムーンライダーズ
希望の舟 / ザ・コレクターズ
海と少年 / 大貫妙子
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