第百九十六話自分の弱さから逃げない
有名な書きだしで始まる、小説『夜明け前』。
作者は、現在の岐阜県中津川市馬籠出身の島崎藤村です。
彼は生まれ故郷の様子を、まるで鳥が谷間を飛びながら眺めるように描写しました。
馬籠は、木曽路の宿場町。
かつてはにぎわいを見せていた街道も、島崎の幼年時代には、鉄道や国道の新設にともない、さびれつつありました。
彼がこの地に暮らしたのは、幼少期の数年でしたが、木曽山中の景色や匂い、伝統や人々の暮らしは、人格形成に多大な影響を与えたと言われています。
北アルプスの一角。
山脈に挟まれた谷での生活は、厳しい寒さとの闘いが常でした。
山肌を縫うように道がうねっている。
屋根には風雪に耐えるように、重い石がのっている。
ひとびとは、自然と向き合い、自然と喧嘩せぬよう、置かれた環境の中で必死に生きていく。
彼は、こんな言葉を残しています。
「弱いのは決して恥ではない。その弱さに徹しえないのが恥だ」。
生まれると、兄弟それぞれに乳母がつくような名家の出身でしたが、気が弱く、人の目が気になり、まわりの人の言葉を信じることができない、繊細な子ども。
いつも、他人と自分の違いばかりを数えあげ、疎外感に打ちのめされていました。
そんな島崎が、明治、大正、昭和を生き抜き、しかも、浪漫主義の詩人、自然主義文学の大家、偉大な歴史小説家と、絶えず自分の変革を遂行したのです。
彼が大切にしたのは、自分の弱さでした。
弱さから逃げないことで彼は自分を律し、成長のための努力を惜しまなかったのです。
文豪・島崎藤村が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
作家・島崎藤村は、1872年、現在の岐阜県中津川市に生まれた。
島崎家は代々、大名を宿泊させるための宿「本陣」をまかされ、庄屋や問屋の商いもする名家だった。
しかし、明治維新の大改革により、全て失う。
父は四十にして、隠居の身となった。
もともと俳句などを詠む、文人。
父は、自ら寺子屋を開くなど、学問の道に没頭した。
兄弟の中でも、藤村の稀有な才能に気づいていた。
幼い藤村に『論語』を教える。
あっという間にそらんじる我が子を見て、思った。
「この子には、ちゃんとした教育を受けさせないといけない。これから時代が大きく変わる。そんなとき、役に立つのは、土地やお金を持っているかどうかではない。学問だ」。
父の導く通り、学ぶことに一生懸命な藤村。
だが、引っ込み思案で人が怖い。
大勢の中に入るのが苦手だった。
小学校に入学するが、友達はできなかった。
ただ隣の家の同い年の女の子、お勇(ゆう)だけには心を許していた。
二人で、蔵の中に入る。
湿った匂い。
昼間なのに、闇が拡がる。
小さな窓から細い光の筋が降りていた。
藁でつくった人形を使い、二人で物語を紡ぐ。
ふと、息苦しくなる。
お勇のことを、ぎゅっと抱きしめたくなる。
その衝動は彼を不安にさせた。
ある日、お勇の兄が、二人で遊んでいるのを見て、言った。
「おまえら、蔵の中で何こそこそやってるんだ! 村で噂になってるぞ!」
恥ずかしかった。
初めて、この世に第三者がいることを思い知った。
島崎藤村は、9歳のとき、郷里をあとにした。
父が、東京に送り出したのだ。
二人の兄に連れられ、山道を歩く。
一週間経ってようやく東京にたどり着いたときには、着物はドロドロに汚れ、わらじはボロボロ。
母が用意してくれた金平糖を食べる時間だけが、心の拠りどころだった。
どうして、こんな思いまでして東京に出なくてはならないのか、幼い藤村には理解できなかった。
ただ、父に嫌われるのが怖い。
父から「おまえはダメなやつだ」と言われることに、心底おびえていた。
生まれるなり乳母に育てられた彼にとって、最も親密なのは、母より父だった。
学問は確かに好きだったが、どこかで父を喜ばせたいという思いが強い。
さみしかったが、家を出るとき、父が言ったひとことが頭に残っていた。
「立身出世するまで、ここには帰ってくるな、いいな」
姉夫婦の家に転がり込み、東京銀座の泰明小学校に入る。
そのころの銀座は、文明開化の最先端。
鉄道馬車がラッパを鳴らして通り過ぎる。
ガス灯がともり、フロックコートの男性が煙管(きせる)をふかす。
木曽の山中とは全く違う風景に、藤村は驚愕し、興奮した。
「ここが…日本の中心なんだ」
島崎藤村の幼年時代は、決して幸福ではなかった。
せっかく身を寄せた姉夫婦は、経済的な理由で田舎に帰らなくてはならなくなる。
知り合いに預けられる。
そこもまた出なくてはならず、たらい回し。
なんとか泰明小学校に通い続けたが、いつも、住む場所は仮の宿だった。
学校では、ハイカラな生徒たちに囲まれる。
従来の内気な性格のせいで、孤立していた。
田舎者の自分。
まわりと打ち解けられない自分。
自意識だけが肥大化し、彼の中でもてあますほど、あふれるようになった。
「弱いなあ、僕は。ほんとうに弱い。誰かが言った、たったひとことで落ち込み、生きるのが嫌になる…」
そんな藤村が、唯一ホッとできる時間。
それは、本を読んでいるときと、物語を想像しているときだった。
架空の人物に自分の弱さを転嫁する。
すーっと気持ちが楽になった。
本の世界は、そして想像の世界は、彼にこう言っているようだった。
「弱くていいんだ。弱いから、ひとは感動したり、涙を流すことができるんだ」
フィクションの海に体をあずけながら、彼は勉学に励んだ。
学ぶことで、自分が大きくなるような気がした。
やがて周りの同級生や先生も、彼を認め始める。
少しずつ、自分の居場所をつくっていった。
ただ、彼の心には、常に深い深い谷があった。
周りを険しい山に囲まれた谷。
その風景は、彼にこう告げていた。
「自分の弱さから、逃げるな!」
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