第二百六十九話持っているものを、ひとのために使う
伊東玄朴(いとう・げんぼく)。
彼が生まれた、現在の佐賀県神埼市には、漢方医だった20歳の時に建てた旧宅が保存され、その家は、昭和48年、1973年に佐賀県の文化史跡に指定されました。
旧宅内には、玄朴自身が翻訳したオランダの書物「医療正始」や江戸時代末期の医学書、師を務めた蘭学塾「象先堂」のパネル写真などを展示しています。
薬箱や、薬の壺、ワクチンの注入セットなど、彼が使った医療道具は、当時の治療の生々しさを伝えてくれます。
伊東玄朴が生涯をかけて戦った病は、天然痘(てんねんとう)です。
現在は根絶していますが、古くは紀元前から、世界を恐怖に陥れた、致死率の高いウイルス性感染症でした。
日本では、渡来人の行き来が増えた6世紀、このウイルスの侵入が記録されています。
現在も使われているワクチンという言葉は、この天然痘の撲滅と無縁ではありません。
イギリスの医学者、エドワード・ジェンナーは、あるとき、乳しぼりをするするひとがほとんど天然痘にかかっていないことを知ります。
牛の病気『牛痘(ぎゅうとう)』の飛沫が彼等に付着し、抗原になったのではないかと推測しました。
こうして、牛痘に罹った雌牛から抗体を取り出し、それを人間に注入することで免疫をつくることを発見したのです。
ワクチンの語源は、ラテン語の雌牛。
このジェンナーの提唱を日本に広め、実践したひとりが、玄朴だったのです。
彼は貧しいながらも、苦学を重ね、病に向き合いました。
彼は生涯、国を豊かにするのは庶民であるという信念を胸に、感染症に対抗するワクチンの普及に努めたのです。
我が国の西洋近代医学の道を切り開いた賢人、伊東玄朴が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
人類史上最大にして最悪の感染症のひとつ、天然痘に対峙した医学者、伊東玄朴は、1800年、現在の佐賀県神埼市に生まれた。
家は代々、地元の氏神に仕える神職だったが、位は被官。
食べていくために、農家も兼ねていた。
玄朴は、幼いときから気が強く、こうと決めたら引かない性質。
きっと相手を睨み、己の意見をいつも通した。
学校では先生に恐れられる。
「なぜ、月は満ち欠けするのですか?」
「どうして、空の上の雲は落ちて来ないのですか?」
「なにゆえ、言葉というものが生まれたのですか?」
徹底的な質問攻め。
自分が納得するまで、先生についてまわる。
あまりのしつこさに、玄朴の姿を遠くに見つけると、見つからないように逃げ隠れした教師もいたという。
玄朴にとって、この世界は謎だらけ。
でも、ひとつひとつの物事の裏には、必ず理由や意味があると、信じて疑わなかった。
文字や書を教わるために、近くの寺に通う。
そこで和尚から、あることを明示され、愕然とする。
それは「人間の肉体はやがて滅びる」という事実。
それ以来、「死」は、玄朴のそばから離れようとはしなかった。
日本近代医学の父・伊東玄朴の幼少期、佐賀は開かれた街だった。
長崎港の警備をまかされた佐賀藩には、西洋の文化が流れてきた。
さらに、これからの未来を担う子どもの教育に手厚く、貧しい家の子どもたちにも平等に学ぶ場が与えられた。
玄朴は、医学に興味を持った。
世の中のあらゆる事象の真ん中に、生きることと死ぬことがある。
その最も大きな謎、最も大きな命題に、一生を捧げたいと思った。
「ひとは、なぜ生まれてきて、なぜ死んでいくのか?」
佐賀城下に、島本良順という医師がいた。
島本は、漢方医の家を継いだが、西洋の医学書をよみあさり、蘭学を学んだ。
「これからは、西洋医学も知らなくてはいけない」と思い、蘭方医を開業した。
そこへ、玄朴が入門。
島本は、玄朴の才能に目を見張った。
記憶力、分析力はもとより、何より驚いたのが飽くなき探求心。
でも、ひとつだけ気になるところがあった。
それは、かすかに芽生えた驕り。
島本は、玄朴を深夜の診察所に呼び、目の前に座らせた。
「鋭く切れる刃物は、ひとを傷つけてしまうことを、覚えておきなさい。ひとよりたくさん持つものは、その余分に持ったものを、ひとさまのために使わなくてはいけない。いいですね。玄朴、おまえは、長崎に行きなさい。長崎でもっと深く蘭学を学び、西洋医学を我が身に叩き込むのです」
島本は若き才能を我が物として使うことをせず、大海原に放った。
伊東玄朴は、立派な医師になった。
どんな患者にも真摯に向き合い、金のない患者からは、診察料を受け取らなかった。
重体の若者に、日本で初めて新薬のクロロホルムを用い、大手術。
右足を切断して命を救った。
そんな玄朴の前に、とてつもない壁が立ちはだかる。
天然痘ウイルス。
致死率は、20%から40%。
治ってもあざが残る。
感染率が高く、病を出した家族は隔離。
悪意のある風評や、根も葉もない噂が飛び交い、ひとびとの心まで荒れ果てていった。
当時、天然痘に一度罹ったものは、二度と罹らないことから、抗体という考え方はあった。
ただ、天然痘患者から採取したかさぶたを粉末にして鼻から吸うというのが、予防接種の代わりだった。
予防のつもりが、本当に天然痘になってしまうか、あるいは、全く効かないか…。
玄朴は、西洋で、牛の天然痘から採取した種痘(しゅとう)が予防に効くことを知る。
佐賀藩に、一刻も早く、この種苗を輸入すべきだと進言した。
子どもたちにこそ、予防接種を行うべきだと普及活動に東奔西走。
予防医学の先駆けとなった。
国の民が、健やかで安心して暮らせる世の中でないと、国が栄えるわけがない。
玄朴は、日常に巣食う「死の影」という棘を、いち早く見つけ、一本一本丁寧に抜いていく作業に没頭した。
ウイルスという目に見えない敵に勝つには、愚直につきあっていくしかない。
でも、伊東玄朴は、勝った。
己の持っているものを全て、民に差し出して、壁を乗り越えた。
佐賀県神埼市にある、彼の胸像。
その眼光は鋭く、今も西を向いている。
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