第六十話一生懸命という凄み
最後の映画スターと言われた、福岡県出身の稀代の名優が逝ってしまいました。
高倉健。享年、83。
今年の夏、一本のドキュメンタリー映画が話題になりました。
タイトルは『健さん』。
高倉健について、世界中の映画人が証言するフィルムです。
この映画は、第40回モントリオール世界映画祭 ワールド・ドキュメンタリー部門最優秀作品賞を受賞しました。
「漫然と生きるのではなく、一生懸命生きる男を演じたいと思います」
映画の中で彼はそう語っています。
一生懸命生きる。
彼がこの言葉を口にすると、こちらが背筋を正してしまうような、凄みを感じます。
それはおそらく、高倉健の生き方そのものからくる、静謐(せいひつ)で真摯な迫力ではないでしょうか。
演じていないときこそ、大事。
映画に関わっていない時間こそが、己をつくる。
そんな姿勢が貫かれています。
彼は、こんな言葉を残しています。
「どんなに声を出しても、伝わらないものは伝わらない。むしろ言葉が少ないから伝わるものもある」
映画『八甲田山』のロケ中に、ある夜、酒に酔った森谷司郎監督が、こう聞きました。
「健さんは、どうしてそんなに強いの?」
高倉健は、こう答えたそうです。
「生きるのに必死だからですよ」
映画俳優・高倉健が最期まで守り通した、人生のyes!とは?
高倉健は、1931年、福岡県中間市に生まれた。
中間市は、かつて筑豊炭田の一角を担った。
高倉健の父親は、旧海軍の軍人。母親は教師だった。
幼い頃、体が弱かった。肺を病み、虚弱体質だった。
洋裁の学校をやっていた母は、通ってくる女性たちに高倉が可愛がられるのを見て、彼にこんな札(ふだ)をぶらさげさせた。
「この子は体が弱いので、むやみに食べ物を与えないでください」
中学のとき、終戦を迎える。アメリカ文化が入ってきた。
彼は、ボクシングを始め、英語を覚えた。
強くなりたい。強くありたい。
その間で、いつも自分を律した。
高校に入ると、漠然と貿易の仕事をして世界に飛び出したいと思った。
福岡を出て、明治大学商学部に入る。
大学を卒業したが、思うような就職先がない。
知人や先生に紹介される企業はどれも立派だったが、高倉の気持ちにはしっくりこなかった。
「勝手にしろ!」先生にも愛想をつかされる。
でも、美空ひばり、中村錦之助を抱える芸能事務所のマネージャー見習いの口には興味を持ち、東映が入っていたビルの地下、喫茶店「メトロ」に出向いた。
偶然違うテーブルで打ち合わせをしていた東映のマキノ光雄専務の目にとまった。
鋭い眼光、がっしりした体躯(たいく)、言いようのない存在感。
マキノは打ち合わせの相手に聞いた。
「あれは、誰?」
こうしてマネージャー見習いではなく、高倉健は、東映ニューフェイスに採用された。
どうしてもなりたくて役者になったわけではない。
だからこそ、高倉健は、手を抜かない。
与えられた環境で最大限の仕事をする。
そこには、傲慢さも、自己顕示欲も、ない。
そこにあるのは、自分を少しでも高めたいという祈りにも似た願い。
俳優・高倉健は、初めてドーランを塗りカメラの前に立ったとき、涙がこぼれたという。
うれしかったわけではない。その逆だ。
ひとまえに自分をさらし、身を切り売りする哀しさに、情けなくて涙した。
俳優座養成所では、恥ばかりかいた。
パントマイムをやれといわれ、「すみません、どうやっていいか、わかりません」と正直に答える。
「キミはね、もういいから、そっちの隅で見学でもしていなさい」と先生に言われた。
クラス中があざけるように笑った。
でも、歯をくいしばる。
もとよりやっとつかんだ就職先。生きるためには簡単にやめられない。
『網走番外地』、『昭和残侠伝』という2つのシリーズで人気が出た。
自分でも実感がない。
「俺の作品のどこにみんな感動してくれているんだ?」わからない。
ある日、プロデューサーに連れられて、映画館に行ってみた。
後ろの扉をそっと開ける。ものすごい熱気。超満員。立ち見もいる。スクリーンの自分に向かって叫ぶひともいる。
もっとびっくりしたのは、映画が終わったあと。
映画館を出るひとが明らかに映画の主人公の歩き方だった。
「なんだ、これは、映画って、いったい、なんだ?」
初めて自分の仕事の意味と怖さを知った。
日頃の自分が何を見て、何を食べ、何を思い、どんな行動をするか、その全てがスクリーンに沁み出てしまう。
自分はとんでもない仕事を選んでしまったのかもしれない。
その怖れこそが、彼を駆り立てた。
高倉健の長い俳優人生で、もっとも自分を変えた作品として彼があげるのが、映画『八甲田山』だ。
撮影は過酷だった。食事は全て雪の中でとった。飯は凍ってシャリシャリ。
凍傷にかかるひと、精神的に不安定になる役者、映画の世界そのままに、極限状態だった。
何人かの俳優は、撮影現場から夜逃げした。
宿舎から撮影現場まで雪上車が用意された。でも、たったの2台。
主役の高倉に助監督が「どうぞ、乗ってください」というと、彼はこう答えたという。
「役の上とはいえ、これからたくさんの俳優さんたちと厳しい自然と対峙するのに、自分だけ、乗れません。これには、乗れません」
歩いた。仲間とともに、雪の上をひたすら歩いた。
彼は思った。
自分は何か思うところがあって役者になったわけではない。
あっちに流され、こっちに振られ、出会ったたくさんの想いにただただ応えたくて、ここまできた。
だから、逃げない。だから、ブレない。
大好きだった煙草もやめる。体を鍛え、万全の状態で撮影に臨めるようにする。
こうして、高倉健は、さらに高倉健になった。
彼が好きな言葉、それは、
「往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いなし」
一生懸命はときにかっこ悪い。一生懸命はときにこっけいだ。
でも、この凄みにかなうものはない。
一生懸命の凄みを越えるものは、ない。
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