第七十四話努れば、必ず達す
その人物とは、嘉納治五郎。
日本の柔道家にして、教育者。
講道館をつくり、日本のオリンピック初参加に貢献した、日本の体育の父、柔道の父です。
もともと柔術と呼ばれていたのを、柔道という名称に変えたのも、嘉納です。
「柔術というのは、なんだか危険な印象を与えるし、どこか見世物のような気がする。本来の柔道というのは、心身をともに鍛えて成立する、立派なスポーツなんだ」。
アジアで最初のIOC、国際オリンピック委員になり、柔道だけではなく、日本人にとってのスポーツ、そして体育教育の発展にも多大な功績を残しました。
日本人選手団が、世界柔道大会やオリンピックなどの競技会に出場する際、今でも勝利祈願として嘉納治五郎の墓を参るのが通例になっているといいます。
彼の座右の言葉は「努れば必ず達す」。
最も寒い時期の寒稽古。30日間、1日も休まず練習を全うすることを弟子たちに求めました。
「一度決心したことは、必ず遂行しようという精神がなくてはならぬ。眠気にも勝ち、寒さにも屈せぬという意気込みがなければならぬ。一度志を立てたら、容易にそれを変更するようなことがあってはならぬ」。
そう、嘉納が言い切るためには、彼自身、ひとには言えぬ努力があったのです。
身長はおよそ158センチ。体重も60キロあまり。
決して恵まれない体格だった嘉納は、欧米視察から帰る船の上でロシア人士官に勝負を挑まれ、彼を投げ飛ばしました。
柔道の父、嘉納治五郎が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
柔道の父、講道館を作った男、嘉納治五郎は、1860年、摂津国御影村、現在の神戸市東灘区に生まれた。
実家は酒を造る名家だった。
父は、もともと近江の神社の出身で、漢学や絵画に秀でており、日本全国を巡り歩いていた。
そんなさなか、神戸の嘉納家に滞在し、論語の講義をしているところを主に気に入られ、次女の婿養子になった。
父は結局、酒造りを継がずに、東京に出て勝海舟のもとで活躍した。
幕府の仕事が忙しい父はいつも不在。
治五郎は幼年時代のほとんどを母と過ごした。
母は、治五郎を可愛がった。
と同時に、間違いをすると、とことん突き詰め、骨身にしみて反省するまで許さなかった。
嘉納治五郎は、のちにこう述べている。
「私にとって、母の存在が精神の軸をつくりました。しつけが厳しかったこともある。間違えたらそれを認める強さを持ちなさいと教えられた。でも、母の姿で最も覚えているのは、自分のことを忘れて他人に尽くす姿です。母はいつも他人のことを心から案じ、そのために心を砕いていたのです。柔道では、相手のことを想い、考え、稽古します。すなわち、自他共栄。自分も他人も共に栄える。これは、おそらく母に教わったことなのです」。
最愛の母は、治五郎がわずか8歳のとき、亡くなる。
でも、彼女の遺志は、息子に受け継がれた。
「自分さえよければそれでいい、そんな人間になってはいけません」。
柔道家にして、教育者、嘉納治五郎は、母が亡くなったのを機に、父を頼り上京。
漢学、書道、日本史や英語。
何をやっても治五郎は才覚を現した。
「この子は、やがて日本国家のために偉大な仕事も成し遂げよう」
父は、期待した。
12歳で、寄宿舎に入る。
しかし、ここで治五郎は人生の洗礼を受ける。
大勢いる先輩にいじめられた。
勉強ができるから目立つ。恰好の餌食になった。
勉強ならどんな相手にも負けない自信があった。
でも、小さな体、虚弱体質。
挑んでも負けてしまう。
悔しかった。悔しくて悔しくて、涙を流す。
「なにくそっ!」
どんなにやられても向かっていく。それでもどうにもならない。
その理不尽さに絶望した。
「勉学ならやればやるほど強くなるのに、どうして体が小さいだけで、負けてしまうんだ」
そうして彼が出会ったのが、柔術だった。
人生に勝つためだったら、どんな稽古も厭(いと)わない。
父に柔術を習う承諾をあおぐと、あっさり断られた。
「柔術なんて、時代遅れだ!そんな暇があったら、英語を学べ!」
でも、治五郎はもう心に決めていた。
ひとには、越えるべきときに越えなくてはならない壁がある。
嘉納治五郎は、大きな相手にも負けない柔術を学ぶため、師匠を探した。
やっと見つけた先生は、ただ治五郎を投げ飛ばすだけだった。
「さあ、おいでなさい」というばかりで、行けば投げられる。
そこには体系的な技も、稽古の計画もなかった。
治五郎は、持ち前の地頭の良さを駆使して「形(かた)」を研究した。
重心をずらし、相手の動きを封じるには、どこをどう抑え、どこをどう引けばいいのかを学んだ。
乱取で、相手と組む。
相手の力を殺すばかりではなく、相手の力を利用して投げる。
自分ひとりが力み、踏ん張っても、技は完成しない。
柔術をより体系的に整理して、柔道と名付けた。
1889年、当時の文部大臣、榎本武揚(えのもと・たけあき)の前で、「柔道は、体の鍛錬、すなわち体育、そして武術的な勝負、さらに精神修養になる修身としての価値があります」と講演を行った。
治五郎の地道な布教により、徐々に柔道が学校教育に取り入れられるようになり、やがて日本を代表するスポーツになった。
嘉納治五郎の口癖は、「なにくそっ!」。
勝っても負けても、うまくいってもいかなくても、「なにくそっ!」。
人生は絶えず、自分より大きなものに立ち向かう戦いの連続だ。
投げ飛ばされる。痛い、つらい、逃げ出したい。
でも、負けてたまるか、「なにくそっ!」
そう思って立ち上がったとき、ひとは相手に負けても、自分には勝っている。
嘉納治五郎は、小さい体で運命に立ち向かった。
たゆまぬ努力だけを武器に。
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