第八話虹を見ていた
室生犀星や堀辰雄と親交を持った芥川にとって、軽井沢の香りは、友情に満ちた、かけがえのない時間を与えてくれました。
そしてもうひとつ、軽井沢は、芥川にとって、最後の恋とでもいうべき出会いを用意しました。
片山 広子。
歌を詠む歌人にして、アイルランド文学の翻訳家。
芥川龍之介は、自作『或阿呆の一生』の中で、「才力の上にも格闘できる女性」としるしました。
外交官の長女として、東京・麻布に生まれ、東洋英和女学校を卒業した才色兼備。
彼女は42歳で銀行員だった夫を亡くし、その4年後に、軽井沢で芥川に出会います。
彼より、14歳年上。しかも、一男一女の母。
でも、広子の想いはあふれます。
「わたくしが女ではなく、男かあるいは他のものに、鳥でも獣でもかまいませんが、女でないものに出世しておつきあいはできないでしょうか」と手紙を綴りました。
広子は、誰よりも芥川の文学的な才能を確信していました。
芥川もまた、彼女の才覚、立ち居振る舞いに、魅かれていきます。
そんな二人が、軽井沢の地で見つめた風景とは?
それぞれが自分に言えなかったyesを言えた、あの夏の日。
誰にも、忘れられない風景があります。
誰にも、心に刻まれた、永遠の時間があります。
芥川龍之介が、死のふちで見つけた、最後の宝石とは?
生まれて間もなく、母が心を病んだ。
母の実家の芥川家に預けられる。叔母の名は、フキ。
龍之介が、11歳のとき、母が死んだ。
正式に、芥川家の養子になった。
芥川家はかつて徳川家に仕えた士族。茶の湯をつかさどった。
もともと芸術を好む土壌があった。
成績優秀者として第一高等学校に入学。
同期に、久米正雄や、菊池寛がいた。
1913年、難関を突破し、東京帝国大学英文科に入った。
同人誌をつくり、小説を書く。
夏目漱石の門下に入り、『羅生門』、『鼻』など、絶賛され、文壇にデビュー。創作に励む。
30歳を越えたころから、神経衰弱、腸カタルなど、心身を病む。
関東大震災を経験し、さらに不眠症がすすむ。
でも彼は創作をやめない。
「樹の枝にいる一匹の毛虫は、気温、天候、鳥類等のために絶えず生命の危険に迫られている。芸術家もその生命を保って行くために、この毛虫のとおりの危険をしのがなければならぬ。なかんずく恐るべきものは停滞だ。進歩しなければ、必ず退歩するのだ」
彼は体にむちうって、進むことをやめなかった。
芥川龍之介は、大正13年と、14年の夏、軽井沢を訪れた。
中山道軽井沢宿の旅籠だった「つるや」。
この旅館は、明治中頃から、文士たちのお気に入りの宿だった。
島崎藤村の紹介で室生犀星がやってきて、犀星の誘いで、萩原朔太郎や堀辰雄、そして芥川龍之介が訪れた。
大正13年の夏の一か月。
芥川は、歌人でアイルランド文学の翻訳者、片山広子に出会う。
彼女は未亡人で、長男と娘を連れてきていた。
14歳離れていたけれど、美しかった。気品がただよい、白い横顔には、文学的な陰影が見え隠れした。
芥川もまたアイルランド文学に魅かれ、イェイツの作品を翻訳したことがあった。
片山親子と、碓氷峠にかかる月を見にいったことがあった。
澄み渡る藍色に、薄い黄色の満月が浮かんでいた。
どうしても、広子の横顔を見てしまう。
何度も何度も、見てしまう。
月を見ているようで、広子を見ていた。
満月は、そんな二人をただ、眺めていた。
翌年、大正14年の夏。芥川龍之介は、再び、軽井沢を訪れた。
彼にとって広子は、同士であり、心の戦友であり、そして、人生最後の恋の相手だった。夏の間のたったの一か月。
芥川には妻子があった。
ある日、つるや旅館の主が、車を出してくれた。
「信濃追分まで、行こうじゃないか」
後部座席には、芥川と広子の二人だけだった。
村のはずれまでやってくる。
道が分かれるその場所で、車を降りた。
芥川と広子は、何かから逃げるように、二人で歩いた。
北の方角には、浅間山が見えた。雨雲をかぶっている。
赤茶けた山肌が、なぜか生々しい。
南に目を向けると、すっかり晴れていた。
二人は、ただ風に吹かれた。ひんやりした雨の匂いのする風。
広子の髪が揺れるのを、芥川は見ていた。
どれくらい、そこにたたずんでいただろう。
「まあ、綺麗」
広子が言った。指差す小山の上に、虹があった。
紫があり、青があり、黄色があり、赤があった。
天に向かっているので、虹がどこを目指しているのか、わからなかった。でも、確実に、どこかに向かっていた。
「綺麗だね」
芥川が目を細めて言った。
ただ二人で虹を見ていた。
やがて、それはどんどん薄くなっていき、空に消えた。
それでもまだ、二人は、そこを動かなかった。
「綺麗ね」
「ああ、ほんとに、綺麗だ」
その二年後、芥川龍之介は、自ら命を絶つ。
うすれゆく意識の中に、あの虹はあっただろうか。
あのときつぶやいた、広子の声は、聴こえていただろうか。
「綺麗ね」
天に向かう虹の行方は、誰にもわからない。
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