第二百十四話6割現実を楽しみ、4割理想のために闘う
彼の故郷は、現在、瀬戸内国際芸術祭2019で沸く香川県高松市です。
高松市にある菊池寛記念館では、『父帰る』や『恩讐の彼方に』、ベストセラーになった『真珠夫人』を書いた、作家としての彼の足跡を追うことができます。
また文藝春秋社設立や、映画会社「大映」の初代社長といった、菊池の実業家としての一面も紹介されています。
さらに圧巻は、歴代の芥川賞、直木賞受賞者のコーナー。
後進を育てようとした菊池の願いが、その展示に現れています。
高松市の中心部に位置する天神前は、菊池寛の生家があった場所で、ここに面する道は“菊池寛通り”と呼ばれています。
通りを隔てた向かい側にある高松市立中央公園内には「菊池寛 生家の跡」と記された顕彰碑があり、そこには、彼が座右の銘としていた言葉が刻まれています。
「実心ならざれば事成さず 虚心ならざれば事知らず」。
まことの心がなければ、何かを成し遂げることはできない。
現実に惑わされない、わだかまりのない心がなければ、真実に近づくことはできない。
この言葉こそ、菊池の生き方を象徴しています。
現実と理想。
エンターテインメントと純文学。
社会的な成功と、世に媚びない芸術活動。
ともすれば相反する二つの世界を軽々と行き来する菊池の姿は、今も私たちに人生の生き方を教えてくれます。
彼はこんな言葉を残しました。
「人間は生きている間に、充分仕事もし、充分生活もたのしんで置けば、安心して死なれるのではないかと思う」。
作家にして実業家、菊池寛が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
雑誌『文藝春秋』を創刊し、芥川賞・直木賞を創設した菊池寛は、1888年12月26日、香川県高松市に生まれた。
菊池家は、代々、高松藩の儒学者の家柄。
しかし、父の代には、質素な暮らしぶりになっていた。
父は小学校の庶務係。家計は苦しかった。
菊池の幼少期。なぜか裕福な暮らしぶりの友人が多かった。
いつもおごってもらう。ご馳走になる。
うれしいけれど、どこか恥ずかしい。
ある縁日の夜。
赤い提灯に彩られた夜店が連なる道を、同級生と歩いた。
植木屋の前に立つ。
いいなと思う盆栽があった。
「これ、いくら?」と尋ねると、植木屋は、「五銭だよ」と答えた。
買う気がない菊池は、「五厘にしてよ」とふっかけた。
植木屋は、しばらく黙ったあと、「いいよ、わかった」と言った。
菊池は、無視してその場から立ち去る。
実は、五厘すら持ち合わせていなかった。
植木屋は、怒った。
罵詈雑言を背中にぶつける。
「ひやかしは、ごめんだ! 二度と来るな!」
裕福な同級生は言った。
「なんで買わないんだよ」
菊池は、うつむいたまま縁日をあとにした。
彼は思った。
「お金がないっていうのは、ほんとうにみじめなことなんだな」
道に落ちた自分の影でさえ、小さくしぼんで見えた。
作家・菊池寛は、幼い頃「炭団(たどん)」というあだ名をつけられた。
炭などを混ぜ合わせ団子状にした燃料、炭団。
菊池は、小柄でずんぐりむっくり。
あまり風呂に入らないせいか、黒かった。
釣りが大好き。
近所の川にお腹までつかって、釣り糸をたれた。
学校の遠足にも必ず釣り道具を持っていく。
釣った魚、餌、なんでもポケットに入れたので、ポケットから取り出したものには、たいていウロコが何枚かこびりついていた。
あるときは、ポケットから出した握り飯に、餌のミミズがくっついていて、周りに悲鳴が起きた。
そんな様子を、冷静に見回す。
天真爛漫のようで、周囲の友だちの表情に敏感だった。
ひとの些細な仕草、立ち居振る舞いをよく観察した。
それは釣りのときの、ちょっとした浮きの動きを察知し、風のざわめきや川の音を聴き分ける能力に似ていた。
学業は、体育と図工以外は常にトップ。
家が貧しく、教科書を買ってもらえなかったが、友だちから借りて、必死に写して勉強した。
中学に入ると、英語は先生もかなわないほどの上達を見せた。
かといって、がり勉ではない。
いつも飄々としていて、いつ勉強しているかわからない。
ある夜、同級生が菊池の家に様子を見に行った。
家の障子はやぶれ、部屋の中が丸見えだった。
勉強していた。
必死の形相で、菊池が勉強していた。
それを見たクラスメートは、たじたじと、その場をあとにするしかなかった。
作家・菊池寛は、入学、退学を繰り返した。
学費が免除されるので東京高等師範学校に入学するが、授業をさぼり、除籍。
明治大学の法科に進むが、3ヶ月で退学。
早稲田に籍を置きつつ、最難関、旧制一高に入るが、友人の窃盗に巻き込まれ、退学。
なんとか京都帝国大学に入り、卒業した。
旧制一高時代の同級生に、芥川龍之介がいた。
菊池は、芥川の才能に早くから気づいたが、同時に彼の、現実と折り合いをつけられない性格を危惧していた。
一方で芥川は、菊池の現世を生きる才覚をうとましくもうらやましいと思っていた。
芥川は命を絶つ前、二度、文藝春秋に菊池を訪ねていた。
しかし、不在。
会社のひとも、芥川の来訪を菊池に知らせなかった。
「もし、あのとき、俺が会社にいたら…芥川に会えていたら」
菊池は、激しく後悔したという。
彼は、芥川の名を文学賞に残した。
実業での成功と共に、菊池のもとに金を借りにやってくる連中が増えた。
そのたびに彼は、袂(たもと)から、これ以上ないほどクシャクシャの紙幣を出して渡した。
「まっさらな札より、もらいやすいだろう」。
それが菊池の優しさだった。
「幼い頃、たくさんおごってもらったから、いいんだよ、これで」。
日常的に起こる辛い出来事も、彼はできるだけ楽しむようにした。それは理想のために闘う力を残そうと考えたからだった。
59歳で突然亡くなったあと、遺書が出てきた。
そこには、こう書かれていた。
『私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。吉月吉日 菊池寛』
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