第二十一話用なき人に用あり
からまつをしみじみと見き
北原白秋の傑作、抒情詩『落葉松』には、軽井沢の美しい並木道の様子が描かれています。
かつては平原で、見渡すかぎりの湿地帯だったこの場所に、先人たちは樹を植えました。
鹿島組を創立、鉄道請負業に進出し、激動の明治を生きた日本が誇る実業家、鹿島岩蔵もまた、落葉松を植えました。
その苗木は百年以上を経て、ひとの心を癒す並木道となり、『鹿島ノ森』になりました。
旧軽井沢ゴルフクラブに隣接する『ホテル鹿島ノ森』。
その敷地内には、御膳水と呼ばれている湧水が涼やかな音を響かせています。
江戸時代から名水の誉れ高く、古くから大名や公家、明治天皇の御膳にも出されたと言われています。
清々しい水を育む、鹿島の森。
鹿島岩蔵の百年先を見越した想いがなければ、実現しなかった風景です。
軽井沢は、イギリスの宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーに見いだされ、日本唯一無二のリゾート地への道を歩き始めましたが、この地を一気に活気づけたのが鉄道でした。
横川、軽井沢間を結ぶ、碓氷線。
その建設工事を請け負ったのが岩蔵ひきいる鹿島組だったのです。
難関碓氷峠に挑み、8つのトンネルを開通した、不屈の男、岩蔵。
彼が大切にした人生のyesとは?
実業家、鹿島岩蔵は、1844年、天保15年に生まれた。
江戸時代から大工の棟梁、建築の請負業を営んでいた父、岩吉のあとを継ぎ、横浜や東京で西洋建築を手がけた。
1880年、36歳のとき、鉄道業に参入。鹿島組を創立した。
きっかけは、明治時代の官庁の一部署、工部省鉄道局長だった井上勝だった。
井上は長州藩士の三男に生まれた武士官僚。早くから岩蔵の才覚に着目していた。
「建築だけではなく、鉄道をやったらどうか」
そうすすめられた。
岩蔵は、生来の交遊家だった。
誰とも仲良くなれる。ひとに好かれ、ひとの助言に素直に応じた。
可愛がられる、それは誰もが真似できる特性ではない。
岩蔵は、後に息子や孫に、こんな言葉を残している。
「用なき人に用あり」。
意味はこうだ。
今は直接関係があまりない人でも、その人の家族や親類、知人に重要な人がいるかもしれない。
いつかめぐりめぐって、自分の仕事に関わる人になるかもしれぬ。
出会う全てのひとに、丁寧に接しなさい。
そうしていればそれがきっと思わぬ方向に拡がっていくから。
鹿島組を興した鹿島岩蔵は、60を越える事業に関係した。
鉄道開設はもちろん、王子製紙の創立、北海道の牧場経営、岡山県児島湾の干拓から、赤倉温泉の開発など、そのどれもが、人が人を呼び、声をかけられ、それに応じることで拡がっていった。
「今、目の前にいる人が、今後、自分にどんなふうに関わるか、誰がわかる?わからぬなら、丁寧に接することだ。誠意をつくせば、やがてどこかへつながっていく」。
鉄道局長だった、日本の鉄道の父、井上勝から鉄道請負業をすすめられたことも、岩蔵の交遊がなせるわざだった。
1891年に始まった横川、軽井沢間の鉄道開通は、困難を極めた。
海抜950メートルの碓氷峠がたちはだかる。26のトンネルと、18の橋をクリアしなくてはならなかった。さらに、急こう配。
岩蔵は、世界的に珍しいアプト式を採用して鉄道開通を実現させた。
工事のため、軽井沢に滞在するようになった岩蔵は、ここでも人付き合いの良さを発揮。
万平ホテルを創業した佐藤万平と親しくなった。
彼から、長野県が所有していた広大な土地が売りに出されるという情報を得る。
15万坪。東京ドーム15個分を越える敷地を購入した。
「あんな荒れた湿地帯を買ってどうするんだ?」
「東京の人は、知らないんだ、あんな土地を買って」
陰口をたたかれても、気にしなかった。
岩蔵はその土地に別荘を6軒建て、ひとつを自分のものして、残り5軒を外国人に貸した。いわゆる貸別荘の先駆けである。
別荘のつくりも、佐藤万平の助言を真摯に聞いた。
「外国人はプライバシーを大切にするから、寝室は2階がいいですよ」
家具や寝具、食器まで備え付けにした。
そうしてできた別荘は、絶大な人気を誇った。
やがて、岩蔵は、敷地に落葉松を植えた。
百年先の森を心に描いて。
人との一期一会を大切に生きることで、岩蔵は激動の明治を生き抜いた。
彼がつくった落葉松の道。それを外国人たちは、GROVE LANE、木立の道、と呼んだ。
新緑の季節、並木道を吹き抜ける風は、岩蔵の祈りを運んでくる。
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