第九十三話今を生きる
安井かずみ。
アグネス・チャン『草原の輝き』、浅田美代子『赤い風船』というアイドルソングから、『雪が降る』、『ドナドナ』、『レモンのキッス』のような海外の歌の訳詞まで、ヒットを連発する売れっ子の作詞家。
およそ4000曲にも及ぶ創作のジャンルの広さ、歌詞の斬新さ、色濃いオリジナリティは、他の追随を許しません。
そんな彼女の華やかで、アーティスティックな人生は、横浜と無縁ではありませんでした。
生まれたのも横浜。病弱のため、療養したのも横浜の郊外。
中学、高校は、横浜にあるフェリス女学院に通いました。
常に流行の発信地だったその場所は、彼女に類まれな感性を授けました。
特にフェリス女学院での6年間は、彼女にとって終生、忘れられない思い出を育みました。
丘に登る石段、道の両側の緑の匂い、礼拝堂と図書館の神聖なたたずまい。
特にキリスト教との出会いは、彼女の心に大きな錨(いかり)を下ろしました。
「作詞をするのは、一枚の絵を画くのと同じだと思う。とても小さな日常の中のきっかけを頼りに、キャンバスに言葉を置く」。
彼女は、過去の歌も未来の歌も書けないと言いました。
「大切なのは、今、このとき。作詞とは、今、今日私がこの世に生きている証拠の産物であってほしい」。
そのために、彼女が自分に課したこと。
それは、正直に生きるということ。
ほんとうに生きていれば、同じ愛の歌でも、ルネッサンス時代の愛の表現と同じ何かに辿り着く。
ほんとうに生きていれば。
55年の生涯を全速力で走るように生き抜いた、作詞家でエッセイスト・安井かずみが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
作詞家でエッセイストの安井かずみは、1939年横浜に生まれた。
家は旧家で大きな屋敷。
長男である父は両親と暮らすことを余儀なくされたが、そこには何不自由ない暮らしがあった。
安井家の念願の初孫として誕生したかずみ。
生まれつき、体が弱かった。
母は、父方の両親にかずみを奪われるように乳母を雇われ、我が娘から引き離された。
母のやることといえば、馬車を引き立てて、義理の母や義理の妹と歌舞伎などの観劇のお供をすること。
嫁と姑の確執があった。
かずみが病弱だったこともあり、父は一念発起する。
旧家のしきたりに逆らい、跡継ぎを弟にゆずり、家族3人で家を出た。
財産も捨て、サラリーマンとしての給料だけで生きていく覚悟を持った。
かずみは常に、明日の命があるかどうかもわからぬ状態。
医者は半ば、さじを投げていた。
一家は、母方の祖父母の家に身をおくことにした。
横浜の郊外には、まだ自然がたくさん残っていた。
父は思った。
「実の母の愛に包まれ、自然に抱かれれば、かずみもきっと元気になる」。
安井かずみの最初の記憶。
それは中庭に面した陽のあたる廊下で、ぬり絵をしたり絵を画いたりする自分の姿だった。
守られた幸せ。
しかしそこに、子ども特有のあふれる生命力は皆無だった。
数々のヒット曲を生みだした伝説の作詞家、安井かずみは、幼い頃、とにかく体が弱かった。
たまには我が子を抱いて、外に出かけたい。
母がそう願い、外出すれば途端に高熱を出し、生死をさまよう。
泣きじゃくる母の背中を見ながら、子ども心に思った。
「私が病弱に生まれてしまったから、みんなに迷惑をかけてしまう。この世に生まれてきて、よかったのかな、私」。
安井かずみに、おもちゃ屋の前でだだをこねた記憶はない。
親を困らせる発想もないし、だだをこねる体力もなかった。
ただひたすら家の中で絵を画いた。
その集中力は、祖父母も驚嘆した。
シローという秋田犬だけが友達だった。
かずみより体の大きなシローは、彼女が耳をひっぱっても尾っぽをつかんでも動じなかった。
父の願いどおり、徐々に体が強くなっていった。
祖母に連れられてのぼった裏山。
そのとき見た夕焼けが忘れられなかった。
安井かずみの感性は、外に出られなかったときに想像力で培われ、外の世界を知ったとき、乾いたスポンジに水が沁み込むように、あらゆる風景を吸収することで完成した。
それでも、彼女の根っこには「自分はいつ死ぬかわからない。自分はこの世に生きていいのかわからない」という思いが宿った。
ときおり熱にうなされると、母が誰かに話している低い声が聴こえた。
「この子は、丈夫です。かずみは健康です。大丈夫、この子はすぐよくなります…」
母の想いに、涙があふれた。
小学校に通うと、安井かずみはさらに自分が特別な存在であることに気づかされる。
通学時は、必ず祖母か叔母がついてくれる。
皮の子ども靴にソックスをはいている生徒は誰もいなかった。
「皮靴の子」と野次られる。
母の手作りの服も、かなりハイセンスだったに違いない。
友達はまったくできなかった。
教室では誰とも口をきかない。
引っ込み思案の性格もあり、集団の中でどう話していいかわからなかった。
安井かずみは大人になって、国内外、華やかな交友関係で有名になったが、彼女の『集団嫌い』は幼いときのままだった。
常に人間関係は一対一を望んだ。
大人への接し方はわかる。
でも同年代の子どもたちとのコミュニケーションのとりかたがわからない。
同級生の鮮やかな生命力に臆する。
不躾(ぶしつけ)な言動に傷つく。
何の疑いもなく明日を信じる感性に驚く。
自分は、他のひとと違う。それが全ての出発点だった。
絵を画く人生を望んだが、あるきっかけで歌詞を書くようになり、才能が開花した。
まだ海外旅行が珍しかった時代にも、積極的に世界中に出かけた。
出会うひとみんなに強烈な印象を残し、人気を博した。
生きることに貪欲、自分の気持ちに正直、ひとはそんなふうに言った。
でも、おそらく彼女の生き方は、諦めと不安に根差している。
「明日、死ぬかもしれない。自分は、生きていていいんだろうか?」
そんな安井かずみが、選んだ道。
それは、今を生きること。
今をほんとうに、生きること。
【ON AIR LIST】
危険なふたり / 沢田研二
Fine On The Outside / Priscilla Ahn
夢がかなうまで / Keri Noble
不思議なピーチパイ / 竹内まりや
閉じる