第百三十九話不安と寄り添って生きる
「台東区立一葉記念館」。
彼女が居を構え、名作を産みだした、ゆかりの場所に立つ建物は、外見は現代風なデザインですが、中に入ると一転、町屋の板壁を模した造りで、あっという間に時間をさかのぼります。
名作『たけくらべ』の舞台は、まさしく竜泉あたりです。
吉原の廓(くるわ)に住む14歳の美登利と、僧侶の信如(しんにょ)の、淡い恋を描いたこの作品は、当時の子どもたちの様子や街の風情が色濃く映し出されています。
17歳で父を亡くした一葉は、家計を担う一家の大黒柱になりました。
小説家だけの収入では足りずに、この地で、荒物、雑貨、駄菓子を売る店を始めたのです。
しかし、商売はうまくいかず、結局引っ越してしまいますが、台東区竜泉での暮らしが、彼女の創作の原点でした。
彼女の小説からは、町の匂いが漂ってきます。
彼女の小説の登場人物たちは、本当にそこに生きているように命が吹き込まれています。
森鴎外、菊池寛、島崎藤村らは、一葉の作品を高く評価し、絶賛しました。
人気のすごさは、彼女の日記にしるされた言葉でもわかります。
「雑誌の編集者は、今や競争で私に執筆を依頼する。夜にまぎれて、私が書いた表札を盗むものもある。雑誌は飛ぶように売れた。すでに三万部売り尽くし、大阪だけで、一日で七百部売れた」。
それでも、一葉の心には、いつも不安がありました。
「しばし机にほおづえをついて考える。誠に私は女なのだ。つまらない作品を当代の傑作と言われるということは、明日はおそらく、ののしりの言葉が並ぶかもしれないということ。このような世界に身を置き、まわりには友人も、自分をわかってくれるひとなどいない。私はまるで全くひとりだ」。
不安と闘いながら、わずか24年間の人生を駆け抜けた、樋口一葉がつかんだ、明日へのyes!とは?
小説家・樋口一葉は、1872年5月2日、現在の東京都千代田区に生まれた。
本名は、樋口奈津。のちに夏子とも呼ばれた。
家は、お金に困ることはなく、教養あふれる祖父と父がいた。
幼い頃から、並外れた素質で周囲を驚かせる。
兄が読みあげる新聞の文章を、3歳にして、正確に暗記して復唱できた。
しかし、勉学に秀でることは、両親にとって喜ばしいことではなかった。
初等教育の義務化がすすんでも、いまだ女性に学があることをよしとしない風潮が残っていた。
「女は、勉強なんてできなくていいんだよ、本なんて読んでどうする。それより、お裁縫をしなさい、お料理を覚えなさい」
母がそう言った。一葉は、本が大好きだった。
暇さえあれば、本を読んで両親に怒られた。
負けず嫌いで反抗心が強い。一度こうだと決めたら絶対ひかない。
そんな一葉の性格を叩き直そうと、父は幼い一葉を蔵に閉じ込めた。
泣くだろう、わめいて助けを乞うだろう。
そう思っていたが、いつまで経っても静かだった。
蔵の重い扉を開けて、父は驚いた。
彼女は、蔵の奥にしまってあった書物を片っ端から読んでいた。あまりに集中して、戸を開けたことに気づかぬほどだったという。
彼女は日記に書いた。
「私は、八歳のときには、大人になったら、普通とは違う人生をおくることを望んだ」。
作家・樋口一葉は、幼い頃から、誰よりも抜きん出ることを望み、それができる自分を感じていた。
でも、最初の挫折が彼女を襲う。
12歳のとき、母が言った。
「学校、やめなさい。女が学校に長く通っても、ろくなことにはならないから」。
むしろ父のほうが一葉に教育を受けてほしかったが、母の意志は強く激しかった。
悔しい。勉強を続けたい。やれば私は誰よりもすごいひとになれるのに…。
泣いた。泣いてお願いした。
「お願いします、お母さん、学校を続けさせてください!」
母は許さなかった。
樋口一葉が学校に通えたのは、わずか6年。
以来彼女は、母の目を盗み、独学で学んだ。ひとに書物を借り、書き写した。
きっと自分は母が考えるような普通の人生などおくれない。
そんな漠然とした不安と恍惚(こうこつ)が、彼女の胸にあった。
ある冬の寒空の下、一心不乱に本を読む一葉。
手は真っ赤に腫れ上がっている。それでもページをめくる。
立ったまま、読み続ける。その姿を偶然、父が見た。感動した。
「この子は、本気だ」。
それ以来、父は母に黙り、一葉にこっそり本を与えた。
和歌や漢詩の書物も渡した。父は言った。
「結局人間には、二種類しかいないんだ。夢中になれるものに出会えたひとと、出会えなかったひと」。
樋口一葉は、歌人・中島歌子の門下生になった。
才能はすぐに開花。抑えられていた学問や芸術への欲求が、彼女を傲慢にした。自分より一生懸命でないひとを軽蔑する。
生意気だった。先輩だろうが、つまらないものはこき下ろし、蔑(さげす)んだ。私利私欲に生きる俗人を何より憎んだ。
「物語を最初に考えるひとは、生半可な努力じゃだめなの。血を吐くような思いをして初めて、ひとの心に届くものができる。お金のため?名誉のため?そんな汚れた心でいい歌は、詠めない!」
しかし、17歳で、父が突然この世を去る。唯一の理解者を失った。
しかも一家の家計は彼女の肩にのしかかる。
お金のためというのを最も嫌っていた彼女が、お金のために小説を書いた。慣れない商人もやった。うまくいかない。
この先、どうする…不安に押しつぶされそうになる。
書いても書いても納得のいくものができない。
原稿をやぶる。自分を罵倒する。そうしてようやく、気づいた。
不安が心の中にあるなら、それと向き合うしかない。寄り添うしかない。
消そう、逃げようと思っても、追いかけてくるのなら、真っ直ぐ対峙するしかない。わずか24年の人生だった。
でも、樋口一葉は、不安と向き合い、寄り添うことで、後世に語り継がれる作品を生み出した。
彼女は言う。
「断崖と荒野を越えて、大河は流れなくてはならない」。
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