第百六十三話楽しいことを手放さない
準決勝の舞台にもなったサンクトペテルブルクの真新しいスタジアムを設計したひとを、ご存知ですか?
日本を代表する建築家、黒川紀章です。
この建築物は、彼の10年越しの遺作でした。
サンクトペテルブルクは、バルト海に面した古い都。
白く丸いドームの屋根からは、8本の柱が天空に突き出しています。
「世界で最もモダンなアリーナのひとつ」と評され、街のひとはもちろん、世界中のひとたちが見惚れる美しいスタジアムになりました。
2006年、スタジアム建設のコンペ参加への招待状が、黒川のもとに届きました。
サンクトペテルブルクは、黒川にとって思い出の場所。
学生時代に初めて参加した国際会議の開催地だったのです。
審査の結果、17社の中から、見事、黒川のデザインが選ばれました。
コンペを勝ち抜いた彼の喜びや興奮が、スタジアムに宿っているように感じます。
彼は大きな船をイメージしました。まるですぐに船出しそうな帆船。
8本の柱は、さながら風を受けるマストでしょうか。
空中に浮かび上がりそうな宇宙船にも見えます。
名古屋の名家に生まれ、1986年に建築界のノーベル賞と言われるフランス建築アカデミーのゴールドメダルを受賞。
常に日本建築界を牽引し続けた男。
さらに女優との結婚など、マスコミの寵児でもあった黒川は、心から建築を愛し、デザインや設計を楽しんでいました。
彼は『黒川紀章ノート』という書物に、こう書いています。
「私は、物心ついてからほぼ100%の時間を、建築からアーバンデザインにいたる創造することの感動、あるいは創造することの楽しさに心から没頭して生きてきた」。
仕事を楽しむことで、激動の高度経済成長時代を乗り越えてきた、黒川紀章。
彼が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
建築家・黒川紀章は、1934年、愛知県名古屋市に生まれた。
小学2年生のとき、太平洋戦争が激しくなり、蟹江町の祖父の家に疎開。
小学5年生のとき、終戦を迎えた。
小学校入学のときは国民学校に変わり、中学は終戦後で新制中学に切り替わった。
この二度の学校制度の切り替えは、黒川の心にある思いを刻んだ。
「いま、正しいとされているものが、この先も正しいとは限らない。信じられるのは、自分の意志だけだ」
愛知一中に進学したかったが、新しい制度でなくなってしまった。
父の卒業した私立の中学に入る。中高一貫の東海学園。
明治時代に浄土宗によって開かれた学校だった。
すべての教師が僧侶。
ここで黒川は、共に生きる、「共生」という思想に触れた。
他者と共に生きる、社会と共に生きる、自然と共に生きる。
ただ、中学生のときは、教師の説法が面倒くさい。
受験勉強に没頭していたので、仏教の教えも聞き流していた。
でも、高校生のとき、同級生と帰る道すがら、なにげない会話から新しい価値観が芽生えた。
「目に見えないものでも、美しいものはあるよな」
と同級生が言う。
「たとえば?」
と黒川が尋ねると、
「いや…宇宙とか、この世の秩序とか」
そう言われて、考える。
宇宙、秩序…受験勉強で頭がいっぱいだったが、その二つの言葉が心に残った。
目に見えないけれど、美しいもの…それはいったい、なんだ?
建築家・黒川紀章は、進学する大学に京都大学を選んだ。
理由は、二つあった。
ひとつは、京都という街のたたずまいに惹かれたこと。
もうひとつは、京都大学に西山夘三(にしやま・うぞう)という高名な建築家がいたことだった。
西山は、常に庶民に寄り添い、住宅問題を科学的に分析する第一人者だった。
戦時中には防空壕づくりにも奔走。
彼の著書『これからのすまい』を、黒川は父の書斎で読んだ。
「建築っていうのは、ただデザインするだけじゃなく、農村・漁村を調査して、社会を改革できたりするものなんだ…」
美的なセンスと日常性。
その一見アンビバレンツなものが、共に求められる実業。
黒川は、思った。
「建築って…なんだか面白そうだ、楽しそうだ」
京都大学に入学。
京都という街で、奈良時代や平安時代に思いをはせ、東洋思想にのめりこんだ。
日本の伝統や哲学に心を揺さぶられながら、黒川は、図面をひくだけの建築ではなく、今という時代を感じる都市計画に興味を移していった。
「僕は、時代の精神を残したい」
建築家・黒川紀章は、そのまま在籍していれば教授の道も拓けていたにもかかわらず、京都大学をやめ、丹下健三研究室がある、東京大学大学院に入った。
丹下が唱えた「内的リアリティ」こそが建築の根幹である、という思想に惹かれたからだ。
調査で時代にフィットした建築ができるわけではない。
建築家の感性にもとずく「内的リアリティ」があって初めて、時代をとらえ、時代を超える建築物ができるという考えに、心をうたれた。
黒川にとって大事なのは、「今、何が自分にとって楽しいか」。
楽しくなくなれば、他に楽しいことを探せばいい。
「苦しいから仕事なんだよ」
と言われれば、彼はこう返しただろう。
「苦しんでちゃ、続かないんだよ。僕はね、続けたいんだ、建築家という仕事をね。だから、一分一秒でも、つまらない時間をもちたくないんだ」
何かをゼロからつくる人間は、子どもの心を忘れてはいけない。
子どもの心とは、何か?
それは、常に楽しいことを探す純粋な気持ち。
黒川紀章は、私たちに問いかける。
「苦しみに耐えるのが、そんなに偉いのか?楽しむことは、罪悪なのか?そんなことはない。心が笑ってないと、誰も幸せにできないよ」
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