第百二十八話二つの自分を手放さない!
かつて津和野藩亀井氏の城下町だった、古き良き日本の風景をとどめるこの盆地は、小京都のひとつとして注目され、今も観光客が頻繁に訪れています。
津和野には、森鴎外が幼少期を過ごした家とともに記念館があり、直筆原稿など貴重な資料が展示されていて、彼の波乱の人生を追体験できます。
森鴎外の肩書は、もちろん小説家。
でも、実は陸軍の軍医であり、官僚、ドイツ留学を生かした翻訳家、評論家でもあるのです。
彼の実家は、津和野藩の医者の家系。藩の医師はそれなりの権威を与えられ、教育の場も守られていました。
嫡男として生まれた鴎外は、幼い頃より論語やオランダ語を学び、英才教育を受けました。
しかも、まわりの大人が驚くほどの学力を持っていたのです。
フツウに人生を歩めば、陸軍の軍医としてお国のために奉公し、尊敬を集め、勲章ももらえたのかもしれません。
でも、鴎外は、あえて文学の道を捨てませんでした。
いや、むしろ、文学の道を我が本流として貫いたのです。
寝る間もおしみ、なぜそこまで自分を忙しくするのか。
そこには、鴎外自身の存在価値への不安があったのかもしれません。
なんのために命を授かり、何をすれば命を全うしたと言えるのか。
ひとは迷い、探し、なかなか答えを見いだせないまま、この世を去っていきます。
だからこそ、彼は捨てなかったのです。
自らの可能性は全て試し、両手でつかむ。
少しでも指にからんだものは、手放さない。
彼の小説にはいつも、うまく生きられず、運命に翻弄される人物が出てきます。
それは彼自身の投影だったのかもしれません。
文豪・森鴎外が、数奇な人生でつかんだ明日へのyes!とは?
作家・森鴎外は、1862年、現在の島根県津和野町に生まれた。
実家は、由緒正しい士族。藩の医学をつかさどる重要な役職だった。
跡継ぎとしての期待を一身に受けた鴎外は、それに応えようとする。
森家の教育係は、母だった。父は甘やかし、母が厳しく監督した。
鴎外は、臆病で引っ込み思案。先生のところに習いに行くとき、いじめっ子に会うのが嫌だった。犬が怖く、吠えられるだけで泣いた。
でも、母は鬼の形相で、鴎外を監視する。
逃げられない。仕方なく、先生のところに出向く。
成績は優秀。必死に予習、復習を欠かさない。
それも、母のスパルタがあったから。
あるとき、先生の家に向かう道すがら、ひらけた土地にスミレやレンゲが咲き誇っていた。
「なんて綺麗なんだ…家に持ち帰って、いつまでも眺めていたい」
そう思った鴎外が花を摘んでいると、近所の子どもに笑われた。
「なんだ、あいつ、女みたいだ!変なの、女みたいだ!」
石を投げられた。意味がわからない。
「綺麗なもの、自然の豊かさにただ感動することを、どうして男がやっちゃいけないんだろう…」
もっと解せなかったのは、家に帰って母に叱られる。
「男のくせに、花なんか摘んでっ!恥ずかしいことをしてはいけません」
恥ずかしい?このときの違和感が、彼を文学にいざなうことになる。
投げられた石を、鴎外はやがて、美しい言葉で返した。
森鴎外は、10歳のとき、故郷・島根の津和野を出て、父とともに東京に向かった。
亀井氏の口利きで、向島に居を構える。
もしかしたら、鴎外の父も気の強い妻から逃れたかったのかもしれない。
官立の医学校に入るため、ドイツ語を学ぶ。
父は千住に病院を開いた。
希望通り、医学校に入学するが、鴎外の関心は文学に向かった。
と同時に、「名を知って、物を知らぬのは、阿呆なり」と思うようになった。
本を読めば、知識は増える。でも、そんなものを自慢しても、ちっとも偉くない。
大事なのは、実際に知っているか、感じているかだ。
サフランという香辛料の名を知った。
鴎外は、それでは終わらない。花を見たくなる。東京中の植物園を探す。
自分の目で確認する。五感を使って体験する。
簡単に情報を手にした気持ちになるな!と鴎外は言う。
「情報にはちゃんと、情という字が入っている。感情に結びつかないものは、情報ではない」
森鴎外は、ドイツ留学にこだわった。陸軍の軍医になることより、異国に暮らすこと。
そこには、想像もつかない情報が待っていてくれるだろう。
留学が決まったとき、人生でいちばんともいえる昂揚感を覚える。
最初の1年は、ライプツィヒで過ごす。
もともと、人見知り。怖がりで、世間慣れしていない。
そんな彼を支えてくれたのが、フォーゲル家のひとたちだった。
20代の多感な数年をドイツで過ごすことができたのは、この最初の出会いが、幸せだったからに違いない。
クリスマスの夜、フォーゲル家に招かれた日のことは忘れられない。
大きなもみの木に、星がキラキラと輝いていた。
「僕はおそらく、医者になるだろう。でも、この輝きをとどめたい。この輝きに感動している自分の感情を誰かに伝えたい。それは、軍医をまっとうすることと、全く違う道なんだろう。でも、どちらも僕だ。どちらかを手放したら、僕は僕でなくなる」
ドイツであるドイツ人女性との運命的な出会いをした。
別れても、記憶から消し去ることはできない。
彼はそれを『舞姫』という小説にした。
医学は、現実。揺るぎない世界で闘う。
でも文学には、どうしようもない人間を許す余白がある。
どうにもならない人生を救う、癒しがある。
ひとには、どちらも必要だ。
だから、森鴎外は二つの人生を手放さなかった。
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