第三百五十四話己の本分を守りぬく
セルゲイ・プロコフィエフ。
現在のウクライナ、ドネツク州の近く、ドニプロペトロウシクで生まれた彼をたたえ、ドネツク国際空港は「セルゲイ・プロコフィエフ国際空港」と呼ばれています。
彼の人生は、戦争や革命など時代の波に翻弄され、まさに波乱万丈。
音楽的にも、新しい嵐が吹き荒れるカオスの中、ひたすら自分の音楽に向き合い、名曲を世に送り出してきたのです。
1918年、27歳の時に日本を訪れたのも、ロシア革命による混乱を避け、アメリカに向かう道中のことでした。
ウラジオストクから日本に入り、アメリカ行きの船を待つ間のおよそ2か月。
ピアニストでもあった彼は、東京で2回、横浜で1回、演奏会を行い、大阪、京都を訪ね、奈良にも立ち寄ったのです。
幼い頃から筆まめで、なんでもメモをとり、文章にして残すのを常としていた彼は、奈良での出来事も日記にしるしています。
奈良公園で出会ったたくさんの鹿について、こんな記述があります。
「公園には神聖なる鹿が歩き回っている。
ひとによくなついていて、パンをあげると、ものすごい勢いでたくさん寄ってきて、あっという間に周りを取り囲まれた」
日本滞在中に聴いた『越後獅子』が、プロコフィエフの代表的な楽曲『ピアノ協奏曲第3番』のヒントになったという説があるそうですが、真偽のほどはわかっていません。
ただ、異国をめぐるその理由が、意に沿わないものであったにせよ、全ての経験、体験が、彼の作曲に影響を与えたことは、少なからずあったに違いありません。
時代の波は、彼の最期においても、皮肉な演出をたくらみます。
61歳でプロコフィエフが息をひきとったその同じ日に、ソビエト最高の指導者と言われたスターリンが、74歳で亡くなったのです。
その時間差は、わずか3時間と言われています。
スターリンの死を悼む多くの群衆。
その中にあって、プロコフィエフの葬儀はひっそりと行われ、参列者はおよそ30人ほどでした。
その中には、共に新しい音楽を求めた旧友、ショスタコーヴィチの姿もありました。
どんな状況にあっても自らの本分を守り抜いた音楽家・プロコフィエフが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
ウクライナ出身の作曲家、セルゲイ・プロコフィエフは、1891年4月23日、旧ロシア帝国ソンツォフカ、現在のウクライナ、ドニプロペトロウシクで生まれた。
父はモスクワ生まれ。農業学院を出て、農地の支配人を務めた。
母はピアノを弾くのがうまく、家にはいつも、ベートーヴェンやショパンの調べが流れていた。
3歳のとき、鉄の箱の角に頭をぶつけ、額に大きなコブができた。
それから25年間、そのコブは消えることがなかった。
高名になったプロコフィエフが肖像画を画いてもらうとき、その画家は、こう言ったという。
「あなたの素晴らしい才能のすべては、全部、そのコブの中にあるんでしょうね」
母は、我が息子の非凡な才能に驚嘆する。
母が弾くベートーヴェンのソナタを、4歳になるプロコフィエフは、完璧にコピーして鍵盤を叩くことができた。
さらに曲の好みがハッキリしていて、「ママ、この曲は嫌い。もう弾かないで」と泣いたり、「これは好き。もう一回弾いて」と、ねだったりした。
母は、息子の音楽教育に熱をあげ、夫に話す。
「あの子の好奇心が、いちばん大切だと思うの。退屈な練習曲ばかりではなく、新しい曲に触れる機会をたくさん持たせてあげたい」。
母は、基礎的なレッスンを20分以上やらなかった。
それ以外の時間は、とにかく、たくさんの曲を聴かせた。
そうして、この曲がなぜ好きか、なぜ嫌いかを、明確に言葉にできるように指導していく。
彼に、批判的な目が宿り、やがて5歳半になったとき、短い曲を作曲できるようになった。
音楽物語『ピーターと狼』やバレエ音楽『ロミオとジュリエット』の作曲で知られるプロコフィエフは、幼くして音楽を書くことを身につけた。
6歳でワルツを、7歳で行進曲を作曲。
8歳のとき、両親とモスクワに行って、オペラを観て衝撃を受ける。
『ファウスト』『眠れる森の美女』。
物語を創造し、そこに曲をつける芸術があることを知った。
さっそく、オペラを書いてみる。
ストーリーは、友だちとの他愛ないお遊びから生まれた。
そこに歌を書く。
タイトルは『無人島で』。
しかし、それがどれほど稚拙なものか、自分でわかった。
もともとの性格を母の教えが広げ、彼には人一倍、批評する力が身についていた。
その鋭い刃は、自分にも向けられる。
「こんなんじゃダメだ、ちっとも音楽になっていない」
彼の場合、自分の根幹を守るのは、自分に対する冷静な批評力だった。
母は、ついに息子に先生をつけなくてはと思う。
グリニールという超一流の師匠が、プロコフィエフを育てることになった。
グリニールは、音楽だけではなく、彼とチェスや球技、遊びも一緒にやることで、幼い天才の心をつかんだ。
こうして才能は、開花していく。
プロコフィエフの母は、我が息子が中等学校に進むとき、大いに迷った。
地元の普通校に入れるか、親戚がいるモスクワの音楽学校か、はたまた妹が住むペテルブルグの音楽院か。
母は、思う。
「もし、この子の才能が平凡なものだったら、どうなるだろう。
音楽の学校に入れてしまったら、つぶしがきかなくなる。
いっそ普通校に入れて、土木技術を身につけさせつつ、並行して音楽をやれば、道に迷わずにすむかもしれない」
迷った末に、ペテルブルグ音楽院の院長・グラズノフに、息子の作曲した楽曲を聴いてもらうことにする。
聴き終わったグラズノフは、いちおう褒めはしたが、それほど熱心に入学をすすめない。
でも、プロコフィエフは、ペテルブルグが気に入った。
ここで学びたいと願う。
プロコフィエフは、自らの道を知っていた。
どうしたら自分が生かせるか。
どこに自分の弱みがあり、強さがあるか。
冷静に自分を見る力こそ、彼の最大の武器だった。
ペテルブルグ音楽院では、「才能はあるが未熟」と評され、苦難の道を歩むが、それこそが彼の飛躍には欠かせないミッションに思えた。
自らの本分を守り抜くには、自分を見つめる鋭い視線が必要であることを、彼は生涯、忘れなかった。
【ON AIR LIST】
ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 第3楽章 / プロコフィエフ(作曲)、マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)、モントリオール交響楽団、シャルル・デュトワ(指揮)
モンタギュー家とキャピュレット家(バレエ組曲『ロメオとジュリエット』より) / プロコフィエフ(作曲)、シンシナティ交響楽団、パーヴォ・ヤルヴィ(指揮)
『ピーターと狼』より / プロコフィエフ(作曲)、リーナ・プロコフィエフ(語り)、スコティッシュ・ナショナル管弦楽団、ネーメ・ヤルヴィ(指揮)
交響曲第1番 ニ長調「古典」第1楽章 / プロコフィエフ(作曲)、モントリオール交響楽団、シャルル・デュトワ(指揮)
★今回の撮影は、「奈良ホテル」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
奈良ホテル HP
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