第三百七十一話天にのっとって、私心を捨てる
夏目漱石(なつめ・そうせき)。
漱石初の本格的記念館「新宿区立漱石山房記念館」は、2017年9月24日に開館し、今年5周年を迎えました。
東京メトロ・早稲田駅1番出口を降り、地上に上がれば、路面に記された黒猫のシルエットが記念館にいざなってくれます。
記念館がある早稲田南町は、漱石が、亡くなるまでの9年間を過ごした場所です。
この地で、『三四郎』『こころ』『道草』など、多くの名作を産み出しました。
家は、和洋折衷の平屋。
当時としてはモダンな、ベランダ式の回廊が家屋を囲っていました。
創作に疲れた漱石は、ベランダの椅子に腰かけ、庭の大きな芭蕉の木や、その下に生える砥草をぼんやり眺めたと言います。
記念館は、このたたずまいを見事に再現。
長さが1メートルにも及ぶ芭蕉の大きな葉が、時代を越えて風に揺れています。
毎週木曜日、漱石の門下生たちは、この漱石山房に集いました。
漱石の家を訪れる若者があまりに多いので、のちに児童文学の父となる鈴木三重吉(すずき・みえきち)が、「先生だって、執筆でお忙しい。訪問は、毎週木曜日の3時以降に決めようじゃないか」と提案したのが始まりとされています。
三重吉自身、神経衰弱を患い、文学を諦めようとしていたところ、漱石が高浜虚子(たかはま・きょし)に紹介。
『ホトトギス』への掲載が認められ、世に出ていったひとりです。
漱石は、門下生たちが議論し、語り合う様子を、ただ黙って聞いていました。
重度の胃潰瘍を抱え、死の恐怖にさらされ、絶望的な孤独の最中にあっても、ただ静かに弟子たちを見守り続けたのです。
天にのっとって私心を捨てること。
いわゆる、「則天去私」の心境に至るまで、どれほど心の血を流したことでしょう。
今もなお読み継がれる、日本を代表する文豪・夏目漱石が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
夏目漱石は、1867年2月9日、江戸、牛込馬場下横町に生まれた。
代々続く名主の家柄だったが、明治維新の混乱期、夏目家の繁栄に陰りが見えた。
母は、高齢出産を恥じ、子どもも多く家計も苦しいことから、漱石を里子に出す。
生後4か月で、四谷で古道具の商いをする店に預けられた。
姉がこっそり様子をうかがいに行くと、たくさんの商品が積まれる中、笊(ざる)に入れられている弟の姿を見た。
あまりに不憫(ふびん)で連れて帰ったが、すぐに漱石は戻される。
1歳のときには、父の友人、塩原家に養子に出された。
9歳で、塩原夫妻が離縁したのを機に、夏目家に戻るが、実の父と養父の間の確執は、漱石が21歳になるまで続き、苗字が定まらない。
さらに、養父は、著名人となった漱石に、お金の無心に現れるなど、関係はそう簡単に切れなかった。
漱石は、晩年書いた『道草』で、養父とのエピソードに触れ、こんな言葉をつづっている。
「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。
一遍起こった事は何時までも続くのさ。
ただ、色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
深い孤独と絶望は、幼少期に始まっていた。
そして彼が書いた初めての小説の書き出し。それは…。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」
夏目漱石は、小学校時代、親の都合で転校を繰り返した。
落ち着かない生活の中、成績はいつもトップクラスだった。
中学2年のとき、実の母が亡くなる。
母だけは自分を心から可愛がってくれた。
落胆は激しく、学校を中退してしまう。
次に入った学校も、やはり中退。
体も弱く、神経も細く、学校教育になじめなかった。
英語の成績が飛びぬけてよかったので、神田駿河台の英学塾成立学舎に入学。
その後、大学予備門予科に入るが、ここでも虫垂炎で落第。
ようやく入った帝国大学でも、神経衰弱で休みがちになる。
イギリス留学でも、心を病み、外に出ることなく研究に没頭した。
帰国後、帝国大学英文科で教鞭の職を得るが、前任の小泉八雲に比べ、授業が面白くないと学生の批判を浴びる。
またしても、神経衰弱に陥った。
自ら望んだわけでもないのに、常に新しい環境にさらされてしまう。
そのたびに、心は悲鳴をあげた。
心身ともにボロボロになった漱石に、「小説を書いてみないか?」とすすめる人がいた。
俳句雑誌『ホトトギス』を主宰していた、高浜虚子だった。
『ホトトギス』に掲載した『吾輩は猫である』が高評価を得た夏目漱石は、『坊っちゃん』で人気を不動のものとする。
デビューは38歳という遅咲きだったが、精力的に執筆に励む。
しかし、またしても彼の前に障壁がたちはだかる。
胃の病。たびたび襲う胃の痛みに耐え、小説を書き続けた。
43歳のとき、療養で訪れた伊豆・修善寺で大量喀血。
30分間、心臓が止まったと言われている。
一命をとりとめるが、「死神」は絶えず、漱石の近くにいた。
晩年記した随筆『硝子戸の中』は、早稲田南町の漱石山房での日常が描かれている。
硝子戸の向こうの芭蕉の木や砥草を眺めながら己を見つめた秀作には、こんな一節がある。
「不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分が何時か一度到着しなければならない死という境地に就いて常に考えている。
どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人として他の人類の一人に向かわねばならないと思う」
すべてを天にまかせ、自然に身を置き、己を捨てるとき、自分の心が自由になることに気がついた。
弟子たちの議論を聴いている自分の心の平穏は、確固たるものだった。
亡くなる直前、父に泣きすがる娘を妻が制したとき、夏目漱石は言った。
「いいよ、いいよ、もう泣いてもいいんだよ」
【ON AIR LIST】
EGO / Boyz II Men
ALFIE / Vanessa Williams
THE CAT / Jimmy Smith(オルガン)
DRIFTER / キリンジ
★今回の撮影は、「新宿区立漱石山房記念館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
同記念館にある再現展示室は、資料を所蔵する県立神奈川近代文学館の協力により書斎内の家具・調度品・文具を再現。
書棚の洋書は東北大学附属図書館の協力により、同館が所蔵する「漱石文庫」の蔵書の背表紙を撮影し製作されています。
開館時間など、詳しくは公式HPにてご確認ください。
新宿区立漱石山房記念館 HP
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