第百二十話人を愛し、運命を呼び込む
幕末の動乱を生き抜いた偉人は数多くいますが、今あらためて、最も注目を集めそうな人物のひとりに、鹿児島出身の西郷隆盛がいます。
最後の侍と言われる西郷は、実に謎の多い人物です。
まず、写真嫌い、あるいは写真を撮る機会がなかったので、姿かたちがわからない。
彼を知る人物が描いた肖像画が、頼りなのです。
身長178センチ、体重110キロ、目はギョロっとしていて、黒目が大きい、犬が好きでいつも犬を連れていた…どれも伝聞の域を出ません。
上野の西郷の銅像が初めて披露されたとき、妻は、「これは我が夫ではありません」と言ったといいます。
最もこれは、風貌が似ていないということではなく、「西郷は、こんな浴衣姿で外に出るひとではありませんでした。いつも礼儀正しく、礼節をわきまえた服装をするひとだった」そうです。
坂本龍馬は、西郷を評して、こう言いました。
「西郷というやつは、まっこと、わからんやつじゃ。寺の鐘にたとえれば、少し叩けば、少し響き、大きく叩けば、大きく響く」。
西郷が、座右の銘とした言葉は、『天を敬い、人を愛す』。
言葉どおり、私利私欲を捨て、天のために戦い、国家の大業のために奔走、一方で農民の心に寄り添い、主君の死に際し、自害するほど情にもあつい男でした。
数々のエピソードがつくる彼の姿は、聖人君子のそれではなく、涙もろく繊細で人間くさい侍です。
日本が大きく揺れた時代をブレることなく生き抜いた西郷隆盛が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
西郷隆盛は、1828年1月23日、鹿児島に生まれた。
父は、薩摩藩の下級藩士。生活は厳しく、貧しかった。
生まれたときから、目の前には桜島。
山はときに噴火し、生きている。
幼心に、人間のはかなさ、小ささが擦りこまれる。
藩士の子どもたちは、郷中という集団に入り、厳しい訓練を受けた。
守るべきことは、次の三つ。
「嘘をつかないこと」「弱いものをいじめないこと」そして、「負けないこと」。
西郷は、5歳のとき、6歳から13歳で構成されている稚児という班でリーダーをまかされた。
体は大きく、わんぱくで、手に負えない子どもだった。
目が印象的だったので、「大目玉どん」と呼ばれた。
口数は少なく、黙ると怖かったが、笑顔になると、途端に親しみやすい顔になった。
直情径行かと思うとそうでもない。
ある日、西郷が水ガメを運んでいるときに、同級生が物陰からワッと飛び出し、驚かせた。
西郷はまず、ゆっくりと持っていた水ガメを地面におろし、それから「わ!」と驚いたという。
11歳のとき、郷中の仲間と妙円寺詣りに出かけた際、他の郷中の青年たちと喧嘩になった。
相手の刀が、西郷の右腕を深く切った。
ポタポタと流れる血を見ても慌てることなく、腕を手ぬぐいでしばる。
ところが家に帰って、母の顔を見たとき、号泣してしまう。
「おはんは、意気地なしじゃ。カカさまを見て泣いとる」
そう母に言われ、西郷はこんな負け惜しみを言った。
「そうじゃなか!カカさまに済まんことをしたと、おいを責めて泣いただけじゃ」
本当は、母の胸に顔をうずめ、怖かったと泣きたかった。
その後、西郷は高熱を出し、右腕は真っすぐ伸びなくなり、刀を握れなくなってしまった。
この怪我が、彼を新しい道へといざなうことになった。
西郷隆盛にとって、11歳の時に受けた傷は大きかった。
一命はとりとめたものの、右腕は満足に動かない。
当時の藩士の子どもにとって、武術ができない、刀が持てないというのは、「おまえは役に立たない」というレッテルを貼られることと一緒だったに違いない。
西郷は、母から受け継いだ楽天的な性格を武器に、方向転換をはかった。
「武術がダメなら、学問をちゃんとやろう」
もし、西郷が傷を負わなければ、大きな体を生かし、剣の力で自らの存在を証明する道を歩んだかもしれない。
同じ町内にいた、大久保利通(おおくぼ・としみち)もまた、体が弱く、武術が得意ではなかった。
二人で、利通の父に、歴史や書物を読む楽しみを教わった。
西郷は、18歳で、年貢取り立ての役人補佐の仕事につく。
米が満足に採れない年でも、厳しく年貢をとりたてる、そんなやり方に疑問を持った。
「農民を苦しめ、破産に追い込むことは、結局、武士の首を絞めることではないか」
古今東西の統治を学び、そこに彼本来の人情が付加されて、気持ちは農民に寄り添った。
西郷は、何通もの意見書を藩主に送った。
その意見書を見て、西郷の心にうたれたのが、新しく藩主になった島津斉彬だった。
運命的な出会いは、西郷の優しい心が呼び込んだ。
名君、島津斉彬は、西郷を可愛がった。
斉彬は、もともと常識人が嫌いだった。
「世を動かすのは、ぼっけもんだ」
『ぼっけもん』とは、無骨で大胆なひとを指す言葉。
西郷の風貌も態度も、斉彬が考える『ぼっけもん』そのものだった。
彼はまわりの者に、こう話した。
「わしはこの頃、よいものを見つけた。西郷という家来だ。軽い身分の者であるが、なかなかの人物と見ている。薩摩一の大器と見ておる。そなたたち、よろしく指導して、引き立ててくれるように」
こうして、西郷は戦乱の表舞台へと導かれていく。
どんな場面、どんな境遇であろうと、彼の主軸には、ひとを愛する、という信条があった。
山形県酒田市に、西郷を称える南洲神社があり、西郷の言葉を綴る『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』を山形の庄内藩がまとめたというのは、どこか不思議な感がある。
かつて薩摩と庄内は敵同士。
庄内藩は破れ、薩摩への遺恨が残っていてもおかしくはない。
庄内藩が負けてから1か月後、西郷の命を受けた薩摩の者が、山形にやってきた。
藩主は、白装束。切腹の覚悟だった。
でも、使いのものは、西郷の意志を伝えた。
「切腹などとんでもない。戦いが終われば、ともに日本を愛する日本人です。貴藩は、北国の雄として、北方からの攻めに留意してください」
この寛大な措置に、庄内藩のひとは感動した。
当時では考えられない裁きだった。
こうして山形の武士たちは鹿児島に研修に訪れ、西郷の言葉を一言一句書きとめ、藩の財産にした。
天を敬い、人を愛す。
そうして西郷は、後世に語り継がれる偉人になった。
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