第三百六話現実を笑う
山東京伝(さんとう・きょうでん)。
本名は、伝蔵。京橋に住んでいる伝蔵だから、京伝。
あるいは、屋号である京屋の伝蔵だから、京伝と呼ばれた、など諸説あります。
戯作者の戯作とは、もともと位の高い知識人、たとえば武士が名前を隠し、戯れに書いた作品を意味します。
江戸時代初期に木版印刷が普及し、それまで貴族や武家のものだった書物が庶民の手にも渡るようになりました。
黄色い表紙が目印の黄表紙という洒落と風刺を効かせた大人向けの読み物が大流行します。
絵と文章でつづる物語。今の世でいう漫画に近いものです。
葛飾北斎や喜多川歌麿も挿絵を担当しました。
この黄表紙で大ベストセラー作家だったのが、山東京伝です。
京伝は、浮世絵師としても名をなした才人。
彼が書く痛快でウイットに満ちたお話や挿絵は、江戸中のひとびとの心をつかみました。
たとえば、大ヒット作『江戸生艶気樺焼』は、こんな話です。
資産家の息子・艶二郎は、とにかく女にモテたい。
しかし、残念なことに大きな団子鼻で、二枚目とは程遠い。
彼は女にモテるために、大金を投じ、ありとあらゆる手段を試みるのです。
架空の女の名前を刺青で彫って、やきもちをやかせる作戦、町芸者をお金で雇い、自分のファンになってキャーキャー言ってもらう作戦、挙句の果てには、心中未遂を行い、世間の話題をさらうという作戦など…。
どれも失敗に終わりますが、やがて、心中未遂のために雇った芸者と夫婦になって、ハッピーエンド。
艶二郎は、庶民の間で大ブレークし、京伝がデザインした艶二郎の手ぬぐいは飛ぶように売れました。
富める者は富み、貧しきものは貧しいままの格差社会、さらに度々の飢饉であえいでいた庶民たちは、京伝の描くフィクションに酔い、生きる活力をもらっていたのです。
町人でありながら、戯作者として一世を風靡した京伝は、現実を違う角度から見せる天才でした。
洒落ていて、粋。
そんな生き方を彼はどうやって手に入れたのでしょうか?
山東京伝が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
江戸時代後期の浮世絵師にして戯作者・山東京伝は、1761年、江戸の深川木場に生まれた。
父は伊勢の出身。幼少の頃、江戸の質屋の養子になった。
家業は順調で、京伝は何不自由ない暮らしをした。
9歳で、近くに住む御家人について、読み書きの手習いを始める。
勉強に励むよう、父から机をもらった。うれしかった。
京伝は、このときの机を生涯、愛用する。
何度住まいを移っても、どんなに削れ、ゆがんでも、この机を手放すことはなかった。
13歳で、京橋に引っ越す。
父は出世して町屋敷の家主になった。
京伝は、学問だけではなく、浮世絵や三味線に合わせて歌う音曲も習う。
特に短い歌に、情感が詰まった「めりやす」が好きだった。
主に歌舞伎の舞台で、登場人物の哀しみやせつなさを歌いあげる短い独吟。
俳優の演技に合わせて、長くも短くもなるところから、伸縮自在の繊維「メリヤス」とかけて名付けられたという説がある。
京伝は、この「めりやす」の歌詞や旋律で、人生の機微を知っていく。
たとえば『四谷怪談』のお岩の髪梳きに使われる『瑠璃の艶』という歌。
恨みつつ、哀しい。
ひとの感情の複雑さと繊細さを学ぶ。
後に京伝は、自分の作品『江戸生艶気樺焼』に、主人公の艶二郎が友人に「めりやす」を教わる場面を書いた。
音曲は、京伝にとって、大人の洒落と粋を知るための指南書だった。
山東京伝の父は、現役で働き続けていたので、京伝は、特に仕事を決めなくても生活ができた。
有り余る時間で浮世絵を極め、後にたまたま書いた戯作が、版元・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)の目にとまり、いきなりのデビュー。
当時、戯作は身分の高い武士がペンネームを使い、二足の草鞋で書いているのが常だった。
町人、しかも定職を持たない京伝がこの世界に入れたのは、とにもかくにも、彼が紡ぎだす物語がずば抜けて面白かったからだ。
彼は細かい機微を、そのまま書かずにさらっと伏せる。
過度な装飾を捨て、シンプルに描く。
それが粋と評され、洒落者と言われた。
でも、自分が書いた黄表紙が売れれば売れるほど、京伝の心に棲む、もうひとりの自分が問いかけた。
「戯作なんて、無益の事。たわけの至り。おまえは町人としてやるべきことをやっているのか?」
やがて京伝は、主人公を「京伝」自身にして、自虐的な作品を書くようになる。
『人間一生胸算用』という戯作では、魔力で豆粒ほどの大きさになった京伝が、働き者の男の体に入り込む。
そこで豆粒の京伝は悟る。
「しっかり働いたやつには、かなわねえ」
奇しくもこの自虐が、庶民の心をつかんだ。
後に伝わる、山東京伝の人物像はさまざまで、お上のお達しに屈せず、囚われの身となっても戯作を書き続けた熱血漢、というものもある。
しかし、当時の版元への手紙から透けて見える京伝は、もっとゆるく、つかみどころがなく、そして、常に「何者でもない自分への戒め」を持っていた。
どんなに売れても、どんなに騒がれても、慢心しない。
今、自分をとりまく現実を笑うという姿勢を保った。
「このろくでもねえ世の中を渡る舟なんてもんは、一艘にかぎっちゃいけねえ。そして、ひとさまに頼っちゃいけねえ」
思えば、彼自身を貫いていた哲学は、「絶えず己を客観視すること」だった。
風紀を乱すものとして、黄表紙が取り締まりを受けるようになり、断筆。
京伝は、煙草入れの商いを始めて、成功した。
彼がデザインした紙製の煙草入れが大流行。
それでも山東京伝は、こう思って自虐的に笑っていたかもしれない。
「こんなもん、いつ辞めたって、かまわねえ」
【ON AIR LIST】
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黄昏泣き / 東京事変
★江東区深川江戸資料館にご協力いただきました。ありがとうございました。
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