第三百二十九話愚痴を言うなら発想を変える
向田邦子(むこうだ・くにこ)。
脚本家として『寺内貫太郎一家』『あ・うん』『阿修羅のごとく』など、数多くの名作テレビドラマを世に残し、飛行機事故で亡くなる1年前には直木賞を受賞。
小説家、エッセイストとして、今もなお、その名をとどめています。
全国各地で没後40年のイベントが企画され、東京新聞でも特集が組まれました。
『向田邦子を読む』と題して、彼女の生涯をひもとくと共に、『あの人に迫る』では、向田邦子の妹、和子のロングインタビューを掲載。
その記事の中で、和子は、弱音を吐かなかった姉の、こんな言葉を引用しています。
「愚痴を言うなら、発想を変えなさい」。
言葉どおり、向田邦子は、自分が置かれた環境を全て受け入れ、それを楽しむ天才でした。
彼女が35歳で、初めて独り暮らしを始めたのは、昭和39年10月10日。東京オリンピックの開会式の日でした。
住んだアパートは、東京都港区西麻布。
昔の地名で言えば、霞町。
向田は、つっかけ履きで近所を散策し、あっという間に「自分の街」にしてしまいます。
6年あまり霞町に暮らし、青山のマンションに引っ越して、そこが終の棲み処になりましたが、青山も同様に、彼女の完全なるテリトリーになりました。
46歳のとき、乳がんを患い、余命半年を告げられ、右手が動かなくなったとき、医者に仕事はやめるように言われると、毅然としてこう言い放ったそうです。
「書くことをやめるというのは、私に死ねということです」
右手がダメなら、左手がある。
文字数が少ないエッセイを左手で書くうちに、エッセイの依頼が多く舞い込むようになるのです。
常に「今、自分がいる場所」を愛し、楽しむ。
脚本家で作家の向田邦子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
脚本家・小説家・エッセイストの向田邦子は、1929年11月28日、東京に生まれた。
向田が、ひとの顔色を細やかに読みとき、鋭い観察眼を得るようになった理由は、二つ考えられる。
ひとつは、父の存在。
頑固で、子どものしつけにうるさい明治の男。
父の機嫌によって、食卓の空気は大きく変わる。
楽天家の母が無防備に発したひとことで、雷が落ちることもあったという。
長女だった向田は、いち早く父の顔色を見て、危機的な状況を回避する術を覚えた。
もうひとつの理由は、転校が多かったこと。
東京から宇都宮、鹿児島に、香川県の高松市。
多感な少女時代を転々としたことで、彼女はクラスの人間関係を瞬時に悟る習性を得る。
転校生の処世術。
ここでは誰に気をつけ、誰と仲良くしておくと、すぐにクラスになじむことができるか。
今いる場所を楽しむための努力は、惜しまなかった。
この能力は、のちに作家になったとき、彼女の大きな武器になる。
向田邦子作品を裏打ちするのは、仔細で豊かな記憶だ。
五感に刻まれたたくさんの思い出は、エッセイで再現され、脚本で具現化された。
その記憶に貢献しているのが、観察眼。
彼女の繊細な気遣いが、敏感な「ひとを見る目」を育てた。
向田邦子の妹、向田和子は、東京新聞のインタビューでこんなエピソードを語った。
中学2年生の和子は、父の言動に辟易していた。
9つ離れた姉、邦子と散歩をしているときに、つい愚痴ってしまう。
「もうお父さんには我慢ならない。ねえ、お姉ちゃん、このうちに生まれてきてどう思う?」
きっと、姉も父の振る舞いに文句をいい、自分の怒りに同意してくれるはずだ、そう思いながら姉を見る。
しかし、返ってきた言葉は意外なものだった。
「私、このうちに生まれて、ほんとに幸せだわ」
和子は、その返答に驚いて立ち止まった。
さらに邦子は続ける。
「生まれてきたことを喜ばれ、両親に愛されて育った私たちは幸せよ。世の中にはいろんなひとがいる。私たちが普通の立場でものを見聞きできることはありがたいことなのよ」
向田邦子は、常に公平に人間を見た。
容姿や学歴、地位やお金持ちかどうかで判断することはなく、常にそのひとの本質を見抜く。
ひとを公平に見れば、自分との共通点や、そのひとの人間味も浮かび上がってくる。
より楽しい日々を送るための、生き方のコツでもあったのかもしれない。
気高い思想や無意味に厳しい戒律ではなく、向田邦子は、日々を楽しむために、ひとを真っすぐ見ようとした。
作家の沢木耕太郎は、著書『路上の視野』の中で、向田邦子を「記憶を読む職人」と評した。
向田の祖父は、腕のいい建具師で、彼女自身、自分の中の基準に祖父の存在があるのではないかとエッセイで述べている。
向田邦子の文章には、過剰な情感や大げさな描写、抽象的な表現がない。
いつも冷静に物事を見極め、あるときは自分さえも冷徹に分析する。
多くのエッセイが3部構成で、中盤大きく飛躍しても必ず導入に帰着し、展開は鮮やかで揺るぎない。
文章を支える、記憶。
彼女の珠玉の思い出が生き生きとしているのは、日々を、瞬間瞬間を、楽しんだ結果なのかもしれない。
『わたしと職業』というエッセイには、こんな一節がある。
「私は、至って現実的な人間で、高邁な理想より何より、毎日が面白くなくては嫌なタチである」
さらにエッセイでは、困ったときには、少し無理をしてでも、自分の仕事を面白いと思うようにしてきた、と語る。
「どんな小さなことでもいい。毎日何かしら発見をし、『へえ、なるほどなあ』と感心をして面白がって働くと、努力も楽しみのほうに組み込むことが出来るように思うからだ」
向田邦子がなぜ、亡くなって40年経った今も愛され続けるのか。
そこには、自分の力ではどうにもできない理不尽な人生に立ち向かう、たったひとつの方法を教えてくれるからなのかもしれない。
「いま、いる場所を愛しなさい」
「愚痴を言うなら、発想を変えると、毎日が楽しくなりますよ」
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