第四百三話ピンチでチャンスを拾う
ポール・ゴーガン。
長らく、ゴーギャンという呼び方が定着していましたが、最近の美術展、書物は、よりフランス語表記に近い、ゴーガンを採用しています。
6月11日まで、東京上野公園の国立西洋美術館において開催中の「憧憬の地 ブルターニュ ―モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷」で出色のゴーガンの絵画が、12点展示されています。
ゴーガンというと、タヒチでの作家活動が有名ですが、実は、ブルターニュ地方のポン=タヴェンこそが、彼独自の絵画を確立した、大切な場所なのです。
ブルターニュで彼が見つけたもの、それは、「野生とプリミティヴ」。
深い信仰に裏打ちされた、素朴な心を持つ現地の人々に、ゴーガンは、人間の根源を見ます。
印象派を取り入れ、自身のオリジナリティに悩んでいた彼にとって、一生を賭けても足りない、壮大なテーマがそこにあったのです。
ゴーガンの人生は、混迷と苦難の連続でした。
パリ株式取引所に就職、家庭を持ち、平穏で満ち足りた生活をしていましたが、やがて絵画に興味を持つ。
世界恐慌を機に、妻の反対を押し切り、絵だけで生きていこうと決意。
しかし、現実はうまくはいきません。
貧困の中、妻は子どもを連れ、コペンハーゲンの実家に帰ってしまいます。
経済的にも精神的にも追い詰められていく、ゴーガン。
それでも、絵を画くことは諦めませんでした。
彼を襲うピンチの数々。
そんなときこそゴーガンは、大好きな絵に立ち戻り、あらたな画風を身に着けていったのです。
晩年、彼はこんなふうに語っています。
「苦しいときは、自分よりもっとつらい人間がいたことを考えればいい。
若者よ、人生は君が思うほど長くない。
人生の長さは一秒にも満たないのだ。
その僅かな時間に永遠に向けての準備をしなければならない!」
波乱万丈の一生を送りながら、唯一無二の作品を後世に残したレジェンド、ポール・ゴーガンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
今年、没後120年を迎える、後期印象派の画家、ポール・ゴーガンは、1848年6月7日、パリに生まれた。
父は、共和主義者のジャーナリスト。
母は、社会主義思想の作家の娘だった。
幼い頃から、世界平和、平等、貧困をいかに無くすかについて、叩き込まれる。
彼が生まれるとすぐ、共和派への弾圧が激化。
一家は、南米ペルーのリマに逃げた。
ペルーに向かう船で、父が亡くなる。38歳だった。
ペルーでは、母の叔父が副王として君臨していたので、歓待された。
南米の独特の風、匂い、食べ物。
インカ帝国の遺跡や他民族の風景は、幼いゴーガンの成長に多大な影響を与えた。
最も多感な6年間を、異境の地で過ごした彼に、野生の直感が根付く。
プリミティヴな原体験は、この世には人知を超えた神の意志があることを教えてくれた。
一方で、召使いとして働く黒人を見て、疑問に思う。
「お母さんは、人間は平等であるべきだといったけれど、なにかおかしい」
ゴーガンが7歳のとき、一家は、フランスに戻る。
父方の祖父の遺産を受け、母はパリに洋裁店を開いた。
ゴーガンは、リマではスペイン語だったが、ここでフランス語を学ぶ。
カトリック系の寄宿学校に3年間通ったが、窮屈で仕方ない。
「ボクは、もっと自由に世界をめぐりたい!」
彼は、船乗りになることを決意する。
ポール・ゴーガンは、パリの海軍予備学校を受けるが、試験に失敗。
でも、船乗りになることを諦めきれず、17歳で船員見習いとして念願の航海に出た。
リオ・デ・ジャネイロ、そして懐かしの南米ペルー。
パリにいたときより、体中の細胞が活性化するのがわかる。
この風、この匂い。
パリの海軍予備学校に受かっていたら、いま、自分はここにいない。
人生というのは、不思議だ。
うまくいかないことが起きても、それが別の扉を開けるチャンスになることもある。
世界中の国々を回っているとき、母の悲報を知る。
享年41歳。
悲嘆にくれたが、目の前の風景が癒しになった。
2年ほどの航海を終え、フランス海軍に入隊。
再び、エーゲ海、地中海、バルト海をめぐる。
23歳の時、知人の紹介でパリ株式取引所に就職。
優秀な株式仲買人として認められる。
裕福な暮らし。
結婚し、子どもにも恵まれ、誰もがうらやむ生活をおくった。
そのころ、ゴーガンは絵を画き始める。
もともと絵を画くのが好きだった。
キャンバスに向かうと、幼い頃から自分の中で育ててきた「野蛮」が目覚める。
妻は、絵を画くときの夫の目を見て、不安に思った。
「このひとは、何かとんでもないことをしでかすんじゃないのか」
不安は、的中した。
ポール・ゴーガン、25歳の時、世界を大恐慌が襲った。
株式仲買人たちは、みな、絶望の淵に立たされる。
しかし、ゴーガンは思った。
「これは、会社を辞め、絵だけで生きていけという神様の啓示じゃないのか!」
妻は、ゴーガンが絵を画くのは、趣味だと思っていた。
いや、そう思おうとしていた。
5人目の赤ちゃんが生まれたばかりだったが、彼は会社を辞めてしまう。
「大丈夫、少しずつ絵は売れている、蓄えもある、問題ない」
そうゴーガンは言ったが、恐慌の渦は、絵画市場をも飲み込んだ。
絵は、売れない。
みるみるうちに、蓄えは底をついた。
妻は子どもを連れて、ふるさとのコペンハーゲンに帰った。
ゴーガンは、ひたすら絵を画いた。
自分には、他のひとが画けないものが画ける。
そんな漠然とした自信が、彼の背中を押す。
このピンチは、いつかきっと新しい扉を開く。
そう信じ続け、彼は大好きな絵を手放さなかった。
その後も、ポール・ゴーガンは、どんな苦難にも希望の光を探し、彼にしか画けない名作を世に残した。
【ON AIR LIST】
IN MY LIFE / THE BEATLES
EL MILAGRO VERDE / LOS MIRLOS
VOLVER / SUSANA BACA
THIS IS ME / MISIA
★今回ご紹介している写真の一部は、国立西洋美術館で開催中の展覧会「憧憬の地 ブルターニュ ―モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
展示作品、展覧会の会期など、詳しくは公式サイトにてご確認ください。
憧憬の地 ブルターニュ ―モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷
公式サイト HP
<ご紹介作品>
ポール・ゴーガン 《海辺に立つブルターニュの少女たち》
1889年 油彩/カンヴァス 92.5×73.6cm 国立西洋美術館 松方コレクション
ポール・ゴーガン 《ブルターニュの農婦たち》
1894年 油彩/カンヴァス 66.5×92.7cm オルセー美術館(パリ)
©RMN-Grand Palais (musee d'Orsay) / Herve Lewandowski / distributed by AMF
<外観写真>
©国立西洋美術館
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