第十一話悲しみよ、こんにちは
この建物は、W.M.ヴォーリズの設計によるもので、フランス文学者の朝吹登水子の命
により、この場所に移築されました。
旧朝吹山荘は、もともと小高い丘の上にありました。
帝国生命や、三越の社長を務めた朝吹常吉の別荘でした。
常吉の長女、朝吹登水子。
彼女は、軽井沢を愛し、この別荘を心から愛しました。
フランソワーズ・サガンの翻訳家、ボーヴォワールやサルトルと親交があった彼女の人生は、決して平たんなものではありませんでした。
日本とフランス。二つの国で生きた彼女が見つめた人生のyesとは?
フランス文学者・朝吹登水子は、1917年2月27日に、生まれた。父は実業家として名をはせた、朝吹常吉。まわりからみれば、何不自由ない、恵まれた生活を約束されていた。
16歳で結婚。夫は、家柄もよく、眉目秀麗な青年だった。新婚旅行で訪れたパリ。華やかであるはずなのに、なぜか、登水子には灰色に見えた。
「これが私の望んだ人生だろうか?」
夫との会話はない。まだまだ学びたい、もっともっといろんな世界を見たい!そう思う登水子にとって、カルチェ・ラタンの街並みは、あまりに遠い架空の街だった。
思えば父、常吉は、19歳でひとりロンドンに留学して西欧文化を学び、子供たちを男女別け隔てなく育てた。
幼い頃から向学心が強かった登水子にとって、家庭に入ることだけが人生ではなかった。
そんな登水子の想いに応えてくれたひとがいた。
兄の三吉(さんきち)。登水子は、三ちゃんと呼んだ。
三吉は、登水子に、パリである芝居を見せた。
名優ルイ・ジューヴェの舞台。
しびれた。フランス語が理解できないのに、体に電流が走った。彼の存在、彼の言葉が、美しいと思った。
「フランス語を学びたい!」心から思った。
物質的には満たされていても、心が裕福でないと、ひとは、幸せにはなれない。そんな単純なことが、彼の言葉から伝わってきた。
登水子は、夫に離婚したいと言った。当時、離婚は珍しかった。
19歳で、単身、フランスに渡った。
「私は、誰の人生でもなく、私自身の人生を歩く!」
フランス文学者、朝吹登水子は、19歳でパリに渡り、全寮制の女学校で勉強した。文字通り、歯をくいしばって2年間、頑張った。ソルボンヌ大学のフランス文化講座の試験に合格。彼女を支えたのは、ただひとつの想い。
「自分が生きている手応えがほしい」
せっかくつかんだ異国での暮らしも、戦争で帰国を強いられた。
鎌倉にいた、戦争最後の年。1945年。
鎌倉も艦載機(かんさいき)からの攻撃を受けるようになった。
登水子は、軽井沢に疎開している両親を訪ねることにした。
2月25日の切符が手に入る。その日は数千の敵機来襲とラジオで聴いた。登水子は、汽車に乗った。
品川や新橋のホームには、焼け焦げた頭巾をかぶる人たちが走り回っていた。上野駅について驚く。あたりは焼け野原。電信柱が燃えていた。夜9時。上野を出る汽車があることを知った。
雪が降ってきた。何度も汽車は止まる。そのたびに、体が震えた。
30数時間かかって、ようやく軽井沢駅に着いたとき、目の前は、一面の雪景色。でも、木々の間から、シジュウカラの声が聴こえた。
「ああ、ここには、平和がある」
安堵に、涙がこぼれた。
フランス文学者・朝吹登水子は、フランスへの想いを諦めなかった。1950年、33歳のとき、再びパリに渡った。
もう迷わない。誰にも邪魔されない。私は、私の道をいく。
登水子は、ひとに会い、自らを高めた。
貧しかった。でも、くじけなかった。
1955年、フランソワーズ・サガンの小説『悲しみよ、こんにちは』で、翻訳家として認められた。
ボーヴォワールの『娘時代』を翻訳したことで、世界的に有名なサルトルとも仲良くなれた。
サルトルに初めて会ったときのことは忘れられない。
ボーヴォワールのアパルトマンのドアの向こうにいたサルトル。
「ボンジュール、マダム」
優しい声だった。握手の手が、柔らかい。笑顔にホッとした。
彼と話す。フランス語が心地よく響く。
サルトルは、言った。
「知識人の仕事は、正しく物事を把握することだ」。
朝吹登水子は、その言葉を聞いて、あらためて思った。
「私は、正しく物事を把握したかった。だから世界を見て、さまざまなひとに会い、ぶつかって叩かれて、ここまできた。」
サルトルとボーヴォワールは、ニコニコと登水子を見た。
パリの街はもう、灰色ではなかった。
風景や心に色を灯すのは、際限なく続けた努力しかない。
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