第十八話シニカルという希望
作家にして評論家の正宗白鳥の文学碑です。
スウェーデン産と言われる黒い御影石には、彼が好んだギリシャの詩が刻まれています。
『花さうび 花のいのちは いく年ぞ
時過ぎてたづぬれば 花はなく
あるはただ いばらのみ』
花さうびとは、薔薇のこと。白鳥が愛した歌には、彼のニヒリズムが色濃く表れています。
軽井沢を愛した正宗白鳥の小説には、全編に、世の中をシビアに見つめる冷徹とも思える鋭い視線があります。
でも、その眼差しには、むしろ希望を、愛を感じざるを得ません。
晩年の彼は講演会でこんなことを語っています。
「例えば、芸術に殉ずるという、そういう人もある。自分の仕事に、芸術でなくっても、ある仕事に全力を挙げて、一生を安んずるという。それは、僕らの尊い所。ところが、僕はそれほど自分の書くものに対して、何の信仰もない。自分のしていることにも何の信仰もない。と、ともに、そういうふうの信仰も、一方のあらゆる困難にあっても十字架につくという信仰もない。どっちもないで、ぐらぐら一生を終わったということになったんです。第一、自分のものを、自分はやろうと思ったんじゃなしに、今だって、できゃしないし、どうにか今日まであったのは、もっけの幸いだと思っている。それで、元来、遊戯だと思っている。小説なんてものは」
小説なんてものは、遊戯。遊び。
でも、その遊びをとことん突き詰めた男の、yesとは?
作家にして評論家、正宗白鳥は、1879年、岡山県の現在の備前市に生まれた。
正宗家は江戸時代からの財産家。
高祖父は林業を営んでいた。
1896年に、のちの早稲田大学に入学。
在学中に内村鑑三らの影響でキリスト教の洗礼を受けた。
卒業後は早大出版部を経て、読売新聞社に入社する。
担当は文芸。25歳のときには、自ら、小説を書くようになった。
29歳のときに書いた『何処へ』が評判となり、文壇にその名を示した。
『何処へ』の主人公、健次は、いつもシニカルな笑みを口元に浮かべる27歳の雑誌記者。愛にも、仕事にも、熱心ではない。その姿はまるで、人の群れの中で安穏としている大衆への抵抗にも思えてくる。
小説の中に、こんな一説がある。
「わずかな命だけれど、人間は何かで誤魔化されなくちゃ、日々がおくれないんですね」
明治、大正、昭和と生き抜いた正宗白鳥の視線は、いつも冷ややかで、核心をついている。
彼は、こんな言葉を残した。
「人は生まれ、苦しんで死ぬ。人生の要点はそれで尽きている」。
作家、正宗白鳥が、初めて軽井沢の『つるや旅館』に泊まったのは、1912年、明治45年のことだった。
それは作家としては最も古い客人だった。
以来、自身が別荘を構える1926年まで、毎年、定宿として『つるや』を訪れた。
彼は、あまり放浪を好む作家ではなかったが、軽井沢にいれば、空想に心をあずけることができた。
外国人たちの文化、それを真似る日本人の若者たち。
キリスト教の香り、人道会や動物愛護の活動。
最も正宗白鳥が気に入っていたのは、街に貼りだされた外国船出航の貼り紙だった。
メルボルン、シンガポール、ボンベイ、シドニー。
横文字で書かれたその地名に、旅の匂いをかいだ。
船の汽笛が鳴る。港でのたくさんの出会いと別れ。軽井沢の清廉な風に吹かれながら、彼は思いをはせた。
戦時中、東京の自宅と軽井沢を何度も往復した。
冬には軽井沢の厳しい寒さも体験した。
のちに彼は、一年中、軽井沢で過ごすことを選んだ。
夏の二か月があるのは、きつい冬があるおかげだと言わんばかりに、この地をまるごと愛した。
彼のともすれば厳しい言葉、シニカルな側面は、実は優しさの裏返しではなかったのだろうか。
正宗白鳥は、島崎藤村らと日本ペンクラブを設立して、4年間会長を務め、文壇の後進の育成に尽力した。
写真を撮られるのを嫌ったが、撮られた写真は笑顔が多かった。
晩年の講演会では、いつもの辛口なものいいで会場を沸かせ、人間の心の本音に迫った。
嘘が嫌いだった。本心を隠し、芸術を語り、人生と向き合わない作家連中を許さなかった。
「なにをえらそうに!作家がそんなにえらいのか?文学がそんなに上等なのか?違う、大切なのは、苦しむこと、もがくこと。目をそむけないことだ」
軽井沢にある、彼の文学碑。
薔薇は、散ってしまい、あとに残るのは、いばらだけだという詩が刻まれている。
彼は知っていた。
残されたいばらにこそ、人生の真髄がある。ほとんどいばらに囲まれた命だからこそ、人の愛が愛おしく、奇跡なのだ。
口元にシニカルな笑みを浮かべながら、彼はこう言うかもしれない。
「私は悲しみや苦しみに裏打ちされていないものを、信じない」。
彼のニヒリズムは、諦めではなく、希望だった。
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