第百九十一話信念を曲げない
この町出身の偉人、「ビタミンの父」と言われる、高木兼寛を記念して名付けられたのです。
高木の銅像は、宮崎県総合文化公園の中にもあります。
日本から、脚気という病を消し去った男は、「ビタミンの父」と呼ばれました。
脚気とは、末梢神経に障害を与え、足にしびれや麻痺を引き起こし、悪化すれば命まで落としてしまう病気。
明治時代初期から後期まで、毎年1万人の命を奪った、原因のわからない不治の病でした。
当時の医学の主流は、ドイツ医学。
陸軍はこれを採用し、脚気は伝染病だという説を信じて疑いませんでした。
その医師の中には、かの森鴎外もいたのです。
高木はドイツではなく、イギリスで医学を学び、海軍の軍医に任命されます。
彼は、脚気は伝染病ではなく、栄養不足からくるものだという説を論じました。
論争は、陸軍対海軍の争いと重なり、両者一歩も譲らぬまま、日清戦争を迎えてしまいます。
結果、日清・日露戦争での陸軍の脚気患者数は、およそ24万5千人、亡くなった兵士は3万人を超えました。
一方、海軍は、患者数がおよそ40人で、死に至った兵士はひとりでした。
高木が、軍艦での食事をパンから麦飯に変え、野菜を積極的にとるように進言した結果です。
そして彼の栄養説のおかげでビタミンが発見され、脚気がビタミンBの欠乏で発生することが証明されたのです。
彼は後輩や部下たちに、いつもこう言っていました。
「病気を診ずして、病人を診よ!」
大切なのは、自分の立場がどうなるかではない。
ひとの役に立てるかどうかだ。
そのためには、いっさい自説を曲げなかった反骨精神が、ときに彼を窮地に追い込みます。
それでも、前に進む。
それでも、信念を曲げない。
日本の医療界に多大なる功績を残した賢人・高木兼寛が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
脚気の治療法を見出し、「ビタミンの父」と呼ばれる医師、高木兼寛は、1849年10月30日、現在の宮崎市高岡町に生まれた。
鎖国していた日本に、この年、イギリスからマリーナ号という軍艦がやってくる。
ペリーが浦賀に上陸し、一気に開国へのカウントダウンが始まるのは、その4年後のことだった。
日本が大きく変わろうとしている気運の中、高木は、この世に生を受けた。
父は、元薩摩藩士の下級武士。
生計を立てるため、大工をしていた。
幼い頃から父を手伝うが、体が弱い。
家でしくしく泣いていると、母が言った。
「泣くのは、おやめなさい。人間、誰もがみんな体が強くなくていいんですよ。弱いものには弱いものの役目っていうものが、必ずあるんだから。大工の手伝いはいいから、学問を一生懸命やりなさい」
母の言葉通り、高木は勉強に精を出した。
当時、薩摩藩の流れをくむ武士の子どもであれば、学業より武術優先が常だった。
でも、高木の両親は、大きく動く日本の未来を担うには、蘭学や古典、歴史や文学が必要であると信じていた。
7歳で「四書五経」を読破。
学校も朝だけでは満足できずに、夕方の年長者のクラスにも参加した。
尊大に知識を自慢することもなかったので、まわりからも可愛がられ、先生にも気に入られる。
ひ弱だった体も丈夫になり、9歳で示現流という薩摩藩に伝わる剣術を学ぶ。
この示現流こそ、高木の精神の根幹を作った。
「ビタミンの父」、高木兼寛が幼い頃習った示現流。
最初に叩きこまれるのは、先手必勝。一撃必殺の極意。
「一の太刀を疑わず」あるいは、「二の太刀要らず」と言われた。
自分が振り下ろす最初の刀に、疑いや迷いを持つな、次の太刀があると思ってはいけない、という教えだった。
次があると思うと、つい、最初の攻撃が中途半端になる。
これがうまくいかなければ、次はないという思いこそ、ひとに強さを授ける。
高木は、幼いながらに、この言葉の正しさを痛感した。
先生にさされる。
迷いながら答えるくらいなら、「わかりません」と大きな声で答えたほうが気持ちもすっきりするし、先生もしつこく叱ったりしなかった。
次々に中途半端な答えを繰り出せば、余計な時間を要し、まわりの心証もどんどん悪くなってくる。
潔さ。
そして、最初に出した太刀を信じる力。
これこそ、彼が乱世を渡っていく、大切な通行手形になった。
12歳で医者になりたいと思う。
村にいた医師の、患者をいたわり、治していく姿に感銘を受けたからだった。
父はもちろん我が息子を医者にできたらと思ったが、ほどなく京都に出向く任務を告げられ、高木が家を守らねばならなくなる。
それから、およそ5年間。
彼はひたすら大工の仕事をして生計を支え続けた。
ただ、医者になるという信念を、一度も忘れることはなかった。
高木兼寛は、17歳でようやく鹿児島の蘭学者、石神良策のもとで医学を学べることになった。
焦りはあった。
でも、自分が医者になることを信じる。
石神に初めて会ったとき、体に電流が走るような感動を覚えた。
「すごい、オーラだ。このひとは、ボクの一生の師匠になるひとに違いない!」
石神もまた、高木の眼光の鋭さに驚いた。
「この子は、ただものではない。世の中を変えるような、偉業を成し遂げる器かもしれない」
もし、この二人の出会いがなければ、日本の脚気事情は深刻の度を増したにちがいない。
石神が、英国医師のウィリアム・ウィリスにつながり、ウィリスが高木のイギリス留学を後押しした。
イギリスで5年修業した高木は、その医療事情、予防医学の啓蒙、そして何より、臨床中心の医学の在り方に驚き、感銘を受けた。
ドイツ医学をひっさげる陸軍には、一歩もひかない。
彼には、確固たる信念があった。
「医学は研究室にいるだけでは、進まない。常に患者に接し、そこから学ぶこと。ボクらは、病を診ているんじゃない。人間を診ているんだ」
高木兼寛が自説を曲げず、信念を通したからこそ、日本から脚気が少しずつ消えていった。
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