第三百話出会いを大切にする
彼は、最晩年の一年あまりを、栃木県宇都宮市鶴田町で過ごしました。
61歳のときに発症した脳出血の療養と、いよいよ激化する戦争から逃れる疎開のため、妻のふるさとに移り住んだのです。
栃木百名山のひとつ、羽黒山を望む山麓で、雨情は、今までの人生では考えられないほど、穏やかで優しい時間に包まれました。
父の事業の失敗、そして死。
我が子を失い、酒におぼれた日々。
18歳で詩を書き始めますが、世の中に認められるまで、およそ20年かかっています。
全国を放浪し、仕事をしても続かず、安住の地を見つけることができませんでした。
それでも、創作には真摯に向き合い、子どもたちの心に少しでも灯りをともしたいと、童謡を書き続けたのです。
栃木で暮らした彼の住まいは「野口雨情旧居」として有形文化財に登録され、今も、彼の過ごした日々を偲ぶことができます。
ここで遺した最後の原稿。
「空の真上の お天道さまよ
宿世来世を 教えておくれ
今日は現世で 昨日は宿世
明日は来世か お天道さまよ
遠い未来は 語るな言うな
明日という日を わしゃ知らぬ
昨日暮らして 今日あるからにゃ
明日という日が ないじゃない」
雨情はあらためて、今日を生きることの素晴らしさに気づき、その今日を支えてくれる昨日を、愛おしく思い出したのでしょう。
これまで会ったひとたちの顔をひとりひとり思い出しながら、彼は、62年の生涯を閉じたのです。
ひととの出会いこそ、自分の財産だったと感じながら。
北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた流浪の作家・野口雨情が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
野口雨情は、20代前半で早くも失意の中にいた。
詩人になりたいという気持ちはあるものの、誰にも認められない。
焦れば焦るほど、空回り。
ふらふらと旅に出てばかりいた。
こんな言葉を残している。
「私は旅が好きなのではない。東京におれば苦痛なのである。苦痛からのがれるために、旅の安息所へ出かけるのである」
早稲田大学時代の恩師・坪内逍遥は、雨情の混乱を見かねて、札幌の新聞社に就職しないかと持ちかけた。
札幌…そこで雨情はある青年に出会う。
同じように所帯を持ちながら、世に出る詩人になれず、必死にもがく同志。
彼の名は、石川啄木。
ある朝、雨情の下宿に来客がある。
もうすぐ10月だというのに、よれよれの浴衣に夏羽織、丸坊主の男。啄木だった。
勝手に雨情の巻きたばこをくゆらせ、「煙草を買う金がなくってねえ」と大声で笑った。
啄木は、雨情と一度面識があり、仕事の無心にやってきた。
「君が勤める新聞社で、校正の仕事でも何でもいいんだ。とにかく、家族を養わなくてはならないんだ。すまないが、口をきいてくれないかな?」
結局、1か月ほど、雨情と啄木は、同じ新聞社で机を並べることになる。
ただ、雨情はここでも問題を起こし、退社。
啄木は、新聞社での仕事は全て雨情に教わった、と後に語っている。
雨情は、啄木に会って、大いに感心した。
影響を受けたと言ってもいいかもしれない。
それは、啄木の人生に対する「素直さ」だった。
野口雨情は、こんな手紙を残している。
「啄木の詩歌は、なんでもないことを、なんでもない言葉で、なんでもなくうたっているところに、敬服させられます。
もり沢山でなければ詩歌でないように考えている人たちには、あまりそっけなく思うだろうと思わるるほど単純であります。
この単純なところに永遠性があると思います。
芸術の本来にかえったとき、如何にその作品が単純であるか否やによって優劣もさだめられるだろうと思います。(*原文まま)」
雨情は4つ下の純朴な青年に教わった。
言葉をわかりやすく、シンプルにしていくことこそ、真理を浮かび上がらせるということを。
北海道を去ってすぐ、雨情は、生まれたばかりの娘を亡くす。
それから5年後、啄木も28歳の若さでこの世を去った。
のちに生まれた名作、童謡『シャボン玉』には、どこか、娘や啄木の影が映しだされているようにも思える。
もうひとり、野口雨情が出会った、忘れられない芸術家がいる。
河童の絵で有名な、小川芋銭(おがわ・うせん)。
同じ茨城県出身の芋銭とは、10代の頃、取手の寺で開かれた句会で出会った。
まだ、雨情は10代後半。
俳句を作るのがただただ楽しかった。
芋銭のことを、絵描きではなく、俳句を詠む俳人だと思っていた。
二度目の再会が、雨情にとって大切なひとときになる。
その夜、水戸の停車場から、野口雨情は汽車に乗った。
18歳の雨情と、32歳の芋銭。
汽車は揺れながら、暗闇を進んだ。
三等車で向かい合う。
「キミ、酒はどうです」
「いえ、飲みません」
「そうですか、こんなにうまいものはない。酒を飲まぬとは、もったいない」
芋銭は、雨情と対等に話した。
俳句のこと、絵で食べていきたいが、なかなかうまくいかないこと。
「ボクはねえ、河童を画くのが好きなんだ。まあ、あれだね、河童は自分自身なんだろうねえ。まわりから奇妙だ、変だと言われ、なんの役にも立たないように見える。実際、農家を支えているのは妻でねえ。ボクは体が弱く、使いものにならないのだよ、ははは」
雨情は、一瞬で目の前の画家を好きになった。
「河童はね、川や沼でおぼれた子どもを助けたいんだよ、ほんとうは…。キミ、いいかい、これから先、芸術で生きていくのは容易ではない。誰にも認められないってことは、苦しいもんだ。でもね、好きなことを、やりたいことを、手放しちゃいけない。いいね」
栃木の羽黒山山麓。
野口雨情は、自らの死期を悟っていた。
思い出すのは、出会ったひとたちがくれた、ささやかなyes。
彼は、こんな句を詠んだ。
「夜明け頃やら羽黒山あたり 朝の朝日がほのぼのと」
【ON AIR LIST】
あの町 この町 / 平井英子
七つの子 / 森みゆき
しゃぼん玉 / 森みゆき、宮内良
十五夜お月さん / 『野口雨情伝』野口不二子著(講談社)付録
船頭小唄 / 『野口雨情伝』野口不二子著(講談社)付録
昭和の初期に活躍した童謡歌手・平井英子さんは、今年の2月、104歳で亡くなりました。謹んでお悔やみ申し上げます。
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