第百五十七話焦らず、ゆっくりと
その林長を務め、世界的に有名になった森林学者がいます。
高橋延清(たかはし・のぶきよ)。通称、どろ亀さん。
いつも森の中を泥まみれになって歩くことから、その名がつけられたといいます。
彼が確立した、天然林の育成法「林分施業法」は、国内だけではなく世界の注目することとなり、富良野に研修・見学にくるひとは後を絶ちません。
森には、人間にとって、大きな二つの役割があります。
ひとつは、環境を維持するための公益的な機能。
もうひとつは、木材を生み出す、経済的な機能。
その二つをきっちり分け、人間の手で正しく管理すれば、必ず森林は応えてくれる、それが「林分施業法」です。
針葉樹と広葉樹。さまざまな木々を分類し、その生態を調査する。口でいうのは容易いですが、調べるだけでも至難の技です。
高橋は、森に暮らし、木に寄り添い、森林と対話し、どの木を伐採すればいいのか、一本一本丁寧に検証しました。
彼が残した言葉に、『歳月が流れて』という詩があります。
ここまで生きてきた
いつも要領が悪かった
時には、物笑いのタネとなった
でも、それでもいい、それでいいと
自分に言い聞かせて、やってきた
目標に向かってノロノロと
人の何倍もの汗と歳月をかけてやってきた
樹海の中で生きてきた
大森林に学び
その深きこと
悠久なること
残された命みじかし
生命みじかし…
愚直に森と向き合い、偉業を成し遂げた森林学者・高橋延清が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
森林学者・高橋延清は、1914年ごろ、岩手県に生まれた。
1914年ごろ、というのは、出生届がなかなか出されず、正確な年がわからないからだ。
父は、資格のない医師。母の実家は、寺だった。
次男だった延清は、母の実家の寺に養子に出された。
口減らしということもあっただろう。
寺での暮らしは、快適だった。
跡取りということで、大事に育てられる。
食事も一人前のお膳。白米や卵も出た。
お供えの団子や饅頭も食べ放題。子どもには天国だった。
でも、いざ実家に帰ると、驚くほど貧しい。
住む家は、農家の間借り。
狭い納屋のような場所に両親と兄弟がひしめき合うように暮らしていた。
アワやヒエを食べ、山ブドウやワラビを食べる。
それでも、延清が帰ってくると、姉や兄、弟たちは喜び、みんなで野山を駆け回り、遊んだ。
寺にいると、川で遊ぶのは危険だからと禁止されたが、実家では、みんなで魚をとったり、泳いだりした。
楽しかった。
いつも寺に戻るときがつらかった。
孤独な寺での生活。
友達は、樹齢数百年の大きな五葉松だった。
話しかける。
「今日ね、学校で先生に褒められたよ」
「明日はね、きっと雨だよ」
「あのね、ボクはこのお寺を継ぐんだよ」
木の幹に触れると、落ち着いた。
でも…ある日、延清少年は寺を飛び出すことになる。
森林学者・高橋延清は、幼少の頃、お寺で奇妙な体験をした。
ある秋の夜更け。
聞きなれない音で、目を覚ます。
ごろん…ごろん…。
誰かが、何かが、廊下を走っている。
伯母が言った。
「あれはねえ、魂が迷っているんだよ…」
住職は、寺の鐘を鳴らした。カーン、カーン。
ごろん、ごろんという音は、やんだ。
でも、延清少年は怖くて怖くて仕方ない。
この世には、人知を超えたものがある。肌身で知った。
自然界への畏敬の念が育つ。
ただ、怖いものは怖い。実家に逃げ帰った。
結局、貧しいながらも家族みんなで暮らす。
食べるものはなくても、楽しかった。いつもニコニコ笑った。
小学校に入学。
校庭に、大きな杉の木があった。
延清少年は、やはり語りかけた。
「おはよう。これから、どうぞよろしく」
小学校、中学校、高橋延清は、勉強に身が入らない。
天性の要領の悪さもあり、成績はふるわなかった。
でも、やればできる。
ひとたび集中すれば、あっという間に学年でトップになった。
東京大学に入ったが、出世には興味がなかった。
農学部の教授会に顔を出さないどころか、本郷キャンパスで一度も教壇に立とうとしなかった。
人間同士のせめぎあいより、樹海に身を置くことが好きだった。
大学紛争のときには、高橋を追放せよ!と大きな看板が立てられたが、気にしなかった。
うまく立ち回れないので、いつも矢面にさらされる。
さすがにへこむときもあったが、そんなときは、森の木々たちが励ましてくれた。
「まあ、いろいろあるのが人生だよ。自分の本分を忘れなければ、大丈夫だよ」
富良野の演習林に、理想の森を築き上げた。
それは誰もが真似できることではない。
でも、高橋延清が、特別優秀で才能があったわけではない。
彼は、雨の日も風の日も、深く積もる雪の日も、森に出かけた。泥だらけになりながら。
愚直であること。泥まみれになれること。その覚悟と粘り強さこそ、尊い。
彼は三十六年、森に通い、足腰にガタがきても、それでも木々に話しかけた。
「おはよう、元気か?今日も、一緒に頑張ろうなあ。焦らず、ゆっくりと」
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