第百五十八話最後まで諦めない
パシフィック・ミュージック・フェスティバル、国際教育音楽祭。
1990年にロンドン交響楽団を率いて、バーンスタインが創設したこのイベントは、今も札幌の夏をクラシック音楽で彩っています。
29回目を数える今年は、バーンスタインの長女、ジェイミーが来日。
父との思い出を語りました。
1990年は、バーンスタインが亡くなった年。
親日家だった彼は、瀕死の状態で指揮棒を振りました。
夏の札幌芸術の森。
演奏したのは、シューマンの交響曲第二番。
リハーサルから彼の熱量はすごかったといいます。
「いいね!素晴らしい!」「美しい!」楽団員をほめ、鼓舞し、「ここはオペラのリゴレットのように」と自ら歌い、指揮台で飛び跳ね、踊る。
ただ、本番では、さすがに苦しそうだったと言います。
まさに瀕死の形相。
それでも彼は指揮棒を振り続けたのです。
オープニングセレモニーの挨拶で彼は日本の聴衆にこう話しました。
「自分に残された時間を、若者の教育に捧げる覚悟をしました」
バーンスタインは、自身の体に鞭うってその姿を見せることで、これからの音楽界を担う若者に訴えたのかもしれません。
「音楽は、すごいんだ。音楽は、素晴らしいんだ。だから、頑張れ!手を抜くな!最後まで諦めるな!」
札幌のあとの東京公演で、彼はプログラム3曲のうち、1曲を若い大植英次という指揮者にまかせました。
かつて小澤征爾をいち早く見出したように、彼はこう言いたかったのです。
「みなさんの国の素晴らしい才能を聴いてください!」
20世紀最高の音楽家のひとり、レナード・バーンスタインが、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
世界的なマエストロにして、ミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』の作曲家、レナード・バーンスタインは、今から100年前の1918年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ローレンスに生まれた。
両親はともにユダヤ系の移民。
父は化粧品関連の商売をして生計を立てようと頑張った。
なかなか軌道に乗らない。家族は家を転々とした。
バーンスタインは、病弱。喘息持ちだった。
引っ込み思案で、人嫌い。
まわりのひととうまくコミュニケーションがとれない子どもだった。
8歳のとき、体中に電流が走るような体験をする。
家族でいった教会、シナゴーグ。オルガンが奏でる音に驚いた。
「まるで神が弾いているようだ!」
弾いていたのは、並外れた才能を持つ音楽家、ソロモン・ブラスラフスキー。わけもわからず、涙が流れた。
高い天井に響き渡る音色は、世界と溶け合い、ひとりぼっちだったバーンスタインも包み込んだ。
のちに、彼は知る。
そのとき演奏していたのが、グスタフ・マーラーの曲だったことを。
レナード・バーンスタインは、10歳のとき、引っ越した家の屋根裏部屋にあるものを見つけた。
埃をかぶった、ピアノ。
叔母が使わなくなったので放置していたのだ。
むきだしの鍵盤に、おそるおそる指を置く。
音が響いた。空気が震えた。
教会で感じた感動が体を突き抜ける。
「ああ、なんて綺麗な音色なんだろう…」
やがて、夢中になった。独学で弾く。
聴いた音楽をなんとか再現しようと必死になる。
やればやるほど、ピアノは応えてくれた。
昨日出せなかった音が出せる。
先週できなかった指使いができるようになる。
勉強もせずにピアノばかり弾いている息子に、父は理解を示さなかったが、どんどん元気になっていく姿を見て、反対する機会をのがしてしまった。
実際、バーンスタインは変わっていった。
彼は神と、世界とつながれる道具を手に入れたので、怖いものがなくなった。
友達と積極的に話し、学校の成績もぐんぐんよくなった。
以前は避けていた運動も、自ら参加するようになった。
バーンスタインの熱意に押し切られ、近所に住む若き女性ピアニストにレッスンを依頼した。
ほどなくして、そのピアニストはバーンスタインの父親に言った。
「すみません、これ以上無理です。彼のあまりの進歩に驚きます。最近では…恥ずかしながら、私が教わっているんですよ。10歳の少年に」
レナード・バーンスタインは、貧しいながらも音楽の教育を受けさせてもらった。
「音楽家など、決して食べてはいけない職業だ!」と反対していた父も、やがて彼の才能に目をつぶることができなくなる。
バーンスタインのデビューは、鮮烈だった。
1943年11月14日。
ニューヨーク・フィルハーモニーを率いる、世界が認めたマエストロ、ブルーノ・ワルターが突然の病に倒れた。
公演をキャンセルするわけにはいかない。
通常であれば、代理はロジンスキー。
しかし彼は大量の雪に埋もれ、家から出ることができない。
リハーサルもできない状況で、バーンスタインに、指揮棒をとれと通達があった。
当時、アメリカには、他の国からやってきた名立たるマエストロがいたので、ニューヨーク・フィルハーモニーの指揮をするアメリカ人はいなかった。
重圧に足が震える。
でも、やらないという選択肢はなかった。
なぜなら、音楽は自分にとって、世界とつながれる唯一の手段だったから。
ブルーノ・ワルターが指揮を振らないと聞くと、帰る聴衆もいた。
でも、その数分後、アメリカ全土が彼の才能にひれ伏すことになる。
指揮台で踊るように、まるで自分が演奏するように躍動するレナード・バーンスタインの姿に、観客は魅了され、その演奏の素晴らしさにスタンディングオベーションはいつまでも続いた。
彼は言う。
「私がもし、他のひとと何か違っていたとしたら、それは、諦めなかったことです。自分が手にした大切なものを、血の涙を流しても手放さなかったことです」
【ON AIR LIST】
「ウエスト・サイド・ストーリー」プロローグ / レナード・バーンスタイン(作曲・指揮)、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
「キャンディード」序曲 / レナード・バーンスタイン(作曲・指揮)、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団
「ピアノ協奏曲 ト長調」第3楽章 / ラヴェル(作曲)、レナード・バーンスタイン(指揮・ピアノ)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
Somewhere / 『ウエスト・サイド・ストーリー』オリジナルサウンドトラックより
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