第二百十話劣等感は最大の武器
リングネーム「ショーヘイ・ビッグ・ババ」。
新潟県出身の伝説のプロレスラー、ジャイアント馬場です。
今年、没後20年になります。
60年代、アメリカンプロレスは全盛期。
そんな中、ニューヨーク、シカゴ、セントルイスなどのメインスタジアムで、「野生児」バディ・ロジャースや「黒い魔神」ボボ・ブラジル、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノらと、毎晩熱戦を繰り広げていたのが、ジャイアント馬場でした。
馬場は、1963年12月15日、力道山が39歳の若さでこの世を去ったとき、日本プロレス界を支えられるのはキミしかいないと、日本に戻ることを懇願されたといいます。
身長2メートル9センチ。
空手チョップに、十六文キック。
日本プロレス史上最大の巨体の持ち主は、その風貌とは違い、繊細で誰にも優しい心を持っていました。
「プロレスから離れるのは、オレが死ぬときだろうな」という言葉通り、還暦を過ぎてもリングに立つことにこだわりました。
「ファンがさあ、ファンがいちばん大切なんだよ。だからね、オレは試合に出続けるよ」
晩年も年間130試合の巡業に歩きました。
しかも、彼は自ら前座を買って出たのです。
試合が終わると、繁華街に繰り出すレスラーが多い中、ひとり部屋に引きこもり、読書したり絵を画いたりしていました。
「なんだかねえ、目立つんだろうね。酔っぱらいにからまれたりしたら、あまりよろしくないからねえ、いいんだよ、オレはひとりきりが好きなんだ」
目立つことが、コンプレックスでした。
大きいことで嫌な思いをたくさんしてきました。
そんな劣等感を抱え続けた、不世出のプロレスラー・ジャイアント馬場が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
ジャイアント馬場は、1938年1月23日、新潟県三条市に生まれた。雪が深い日だった。
4人兄弟の末っ子として生まれた馬場は、体重2800グラム。ごくごく普通の体つきだった。
「正しく、素直に、平和を愛する心を持ってほしい」
そんな願いを込めて、正平と名付けられる。
父は、野菜や果物を売る青果店を営んでいた。
働き者で人情味があふれ、近所でも評判の店だった。
2人の姉に可愛がられ、馬場は優しい子どもに育っていく。
街を流れる五十嵐川で泳いだり、釣りをしたり、近くの神社の境内で友達と三角ベースをするのが好きだった。
家族に暗雲が立ち込めるのは、馬場が6歳のとき。
ガダルカナル戦線に出征していた長男の戦死の報が届く。
父も母も大声で泣いた。
特に父は、優秀な兄に多大な期待を寄せていた。
快活だった父が、すっかり無口になる。
繊細な心を持っていた馬場は、そんな姿を見て、こう感じた。
「お父さんは、死ぬのがお兄さんじゃなく、ボクだったらよかったのにって思っているんじゃないかな」
絵を画くのが好きだった兄の絵の具箱を取り出して、リンゴを画いてみた。
スケッチブックに、ポタポタと涙がこぼれた。
ジャイアント馬場こと馬場正平は、病に伏せる父に代わり、小学生の頃から家業を手伝った。
少しでも役に立ちたかった。
「正平がいてくれて、助かるよ」
父にそう言ってほしかった。
近隣の長岡市や、燕市までリヤカーを引いて行商に出かける。
片道12キロ。
雨の日も雪の日も、リヤカーを引き続けた。
地元の野球部に入っていたので、練習したかったが、できない。
小学2、3年の頃は、どちらかというと背は小さいほうだった。
突然、ぐんぐん背が伸び始め、6年生になる頃には180センチ近くになっていた。
中学に入るとき、周りの目が怖かった。
ひとりだけ飛びぬけて大きい。
どこへ行っても目立つ。好奇の目が痛い。
運動はなんでも得意だった。
野球はもとより、卓球、水泳、バスケットボール。
俊敏な動きと力強さ。
スポーツをしているときだけ、自分を解放できた。
バスケットボールでシュートを決めたとき、みんなが拍手してくれると、ようやく思えた。
「ボクは、ここにいていいのかな」
馬場正平の身長は、高校に入るとき、すでに190センチを越えていた。
身体検査の身長を測る機械が使えない。
各運動部から、誘いの声が来た。
馬場は最初から決めていた。
「野球をやりたい。プロ野球の選手になって、父に楽をさせてあげたい」
実力は十分だった。
すでに彼が投げる豪速球を打てる同級生はいなかった。
しかし、問題が起こる。
馬場の足に合うスパイクがない。
それまでは草履、あるいは裸足で過ごしていた。
スパイクがなければ入部させてもらえない。
大きな足に、コンプレックスを持つ。
「これで野球を断念しなくちゃならないなんて、なんてこの世は理不尽なんだ…」
結局、美術部に入る。
スパイクどころか、一足も合う靴がない。
高校生で裸足で歩くのは自分だけだった。
情けなくて涙が出る。
ある日、ひとりの外国人の宣教師が馬場家を訪ねてきた。
「モシ、ヨカッタラ、ワタシのクツ、ツカッテクダサイ」
サイズがぴったりだった。
うれしかった。
自分にもはける靴がある。
それだけで人生にひかりがさした。
高校2年のとき、野球部から連絡が来る。
「キミに合うスパイクを作った。ぜひ、一緒に野球をやろう!」
そのスパイクをつくるお金は、馬場の母が工面した。
母はそれを言うと、馬場が辞退すると思い、ひと芝居うったのだった。
これで野球ができる! うれしかった。天にものぼる思いがした。
馬場は思った。
自分に合う靴がなかったときの気持ちを大切にしよう。
自分に合う靴が見つかったときのことを忘れないでいよう。
プロ野球からプロレスに転向しても、ジャイアント馬場の心は変わらなかった。
他のひとと同じではないことがコンプレックスだったけれど、それこそ、他のひとと違うことができる最大の武器だと信じる。
たくさんのひとを、楽しませたい。勇気づけたい。
こんな自分でも、ここまでやれることを見せたい。
いま、あなたが抱えている劣等感こそ、あなたを幸せにするタネであることを知ってほしい。
【ON AIR LIST】
ジャイアント馬場のテーマ:王者の魂 / DDT
FAMILY AFFAIR / Sly & The Family Stone
SPINNING WHEEL / Blood, Sweat & Tears
TO SAY I LOVE YOU / Ray Carrion & Thee Latin Allstars
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