第三百七十七話井戸を掘るなら水が湧くまで掘れ
石川理紀之助(いしかわ・りきのすけ)。
幕末に生まれた理紀之助は、明治、大正を生き抜き、秋田県種苗交換会の発足や、農民が結束して売り上げをあげるための経済会の設立など、農村の更生や、農地の改良に心血を注ぎました。
その活動は、秋田県だけにとどまらず、全国各地からの依頼を受け、遠く宮崎県の村にまで指導に出向いたのです。
理紀之助は、カリスマ的な指導者になることを望まず、農民ひとりひとりが当事者として意識することを主眼におきました。
最初に取り組むのが、規律ある生活。
毎朝、午前3時に起床。
理紀之助は、木の板を木のカナヅチで叩き、村人を起こすことから一日を始めます。
カーン、カーンと村中に響き渡る、板木の音。
早起きして、農作業に出る前に、藁(わら)を編む仕事をすれば、家計の助けになります。
農民の意識を変え、借金返済のため、みんなで協力。
肥料は共同で購入し、売り上げも均等に配分。
南秋田郡山田村に、山田経済会を立ち上げ、7年かかると言われていた借金返済を、5年で成し遂げました。
この噂が新聞で報じられ、理紀之助は一躍有名になり、全国の貧しい農村から指導の依頼が来るようになったのです。
どこに行っても、彼はまず、午前3時に板木を鳴らします。
ある日、妻が言いました。
「こんな吹雪の朝に、あなたの板木の音など、誰にも聴こえないんじゃないですか?」
しかし、理紀之助は、こう返しました。
「ああ、そうかもしれないね。
でも、私は、この村のひとたちだけのために、木の板を叩いているんじゃないんだよ。
ここから、500里離れた九州のひとにも、あるいは、500年後に生まれるひとたちにも聴こえるように、打ち鳴らしているんだ」
彼は、中途半端を嫌いました。
やるなら、とことんやる。同じことを、何度も続ける。
若い衆に言いました。
「井戸を掘るなら水が湧くまで掘れ」
秋田県の農業の父・石川理紀之助が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
秋田県のみならず、全国の農業の発展に貢献した、農業の父・石川理紀之助は、1845年4月1日、現在の秋田市金足小泉に生まれた。
実家は、豪農。
邸宅は秋田県立博物館の分館として、国の重要文化財に指定されている。
しかし、理紀之助の幼少期に、家は衰退の一途をたどり、三男だった彼は、奉公に出された。
奉公先で少しでも役に立ちたいと、午前3時に起きる。
この習慣は、71年間の生涯で変わることはなかった。
日々の辛い労働の傍ら、秋田三大歌人のひとり、蓮阿上人(れんあ・しょうにん)がいる寺におもむき、和歌を学ぶ。
歌を詠むときだけが、憩いのひととき。
将来は、歌人になりたいと思う。
しかし、奉公先の主人に「農家に学問や和歌などいらぬ」と禁じられる。
主人は、それでもやめない理紀之助に腹を立て、詠んだ歌や書物を、全部焼いてしまう。
くやしかった。
哀しかった。
涙がこぼれる。
どうしても諦めきれず、家出。江戸を目指した。
早々に金を使い果たし、知り合いのつてで、秋田県湯沢市川連町に滞在したが、生活ができなくなり、やがて、養父のもとに帰る。
このときの挫折は、彼の心に刻まれた。
「やるなら、とことんやらねば、ダメだ。あとでゼッタイ後悔する」
石川理紀之助は、結局、奉公先とうまくいかず、実の父のもとに戻された。
21歳のとき、石川家の婿養子となる。
石川家の主人は、「理紀之助くん、私は君に家督を譲る。どうか、この貧しい農家である我が家を再建してくれないか。君のやりたいようにやればいい」と言った。
膨大な借金と、荒れた土地。
山田村では、夜逃げする農家があとを絶たなかった。
このままでは、40世帯、およそ100人の村人が、みんな生きていけなくなる。
自分の家だけがよくなっても意味がない。
理紀之助は、村の農家を回る。
つながろう、結束しよう、一緒に頑張ろう。
まずは、気力を失い、希望を捨てた農民の意識を変えること。
一軒一軒、回る。
毎朝、午前3時に板木を打った。
カーン、カーン。農村に響き渡る音。
「みんな、起きろ! 起きろ! ここから這い上がるには、人とおんなじことをしていてはダメだ! 時間をうまく使って、収入を増やそう!」
みんなでまとめて肥料を購入すれば、安くなる。
工具も農具も、共同で使えば効率的だ。
売上が悪い家があっても、平等に分配する。
すると、その農家は、歯をくいしばって次は頑張ろうとする。
やがて、村の組織は、山田経済会と名付けられ、新聞の全国紙に取り上げられるようになった。
山田経済会がマスコミに取り上げられ、石川理紀之助の名前は全国に知れ渡る。
秋田県内だけではなく、全国の農村から、「ウチをなんとかしてくれないか」と来客が後を絶たない。
そんなとき、理紀之助は、まず、こう話した。
「私ひとりがそちらの村に行ったからと言って、すぐに借金が返せるわけじゃないんです。
大事なのは、みなさんおひとりおひとりが、本気かどうかなんです。
一度引き受けたら、私は徹底的にやります。
そのやりかたに、村のみなさんがついてきてくれるかどうか、そこが一番の問題なんです」
57歳の時、農商務次官の前田正名(まえだ・まさな)から、一通の手紙をもらう。
「宮崎県のある村を開拓しようと思ったが、思うようにいかない。助けてくれないか」という主旨だった。
理紀之助は、仲間と共に宮崎に渡り、半年間そこで暮らし、村を軌道に乗せた。
彼は、村人に言い続けた。
「諦めちゃダメだ。いいですか、井戸を掘るなら水が湧くまで掘るんです」
【ON AIR LIST】
OOH, CHILD / Milton Nascimento
I WON'T GIVE UP / Jason Mraz
夜明けの歌 / orange pekoe
★今回の撮影は、「潟上市郷土文化保存伝習館(石川翁資料館)」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
潟上市郷土文化保存伝習館(石川翁資料館)
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