第二十二話道を選ぶ
分岐点の分に、去っていくと書いて、分去れ。
言葉どおり、越後へ通じる北国街道と京都に向かう中仙道の分かれ道です。
江戸時代から旅人たちは、ここで別れを惜しみ、たもとを分けて、それぞれの道を目指しました。
この追分の分去れを、詩に詠んだ作家がいます。
立原道造。彼が詠んだ詩は、こうです。
「咲いているのは みやこぐさと
指につまんで 光にすかして教えてくれた
右は越後へ行く北の道
左は木曽へ行く中仙道
私たちは綺麗な雨上がりの夕方に
ぼんやり空を眺めてたたずんでいた
そうして夕焼けを背にしてまっすぐ行けば
私のみすぼらしいふるさとの町
馬頭観世音の草むらに
私たちは生まれてはじめて言葉をなくして立っていた」
立原道造は、帝国大学に入学した20歳の夏に、軽井沢を訪れました。
以来、24歳で亡くなるまで、この地を愛し、たくさんの詩にしました。
14行のいわゆるソネット形式の詩を、まるで音楽を奏でるように詠んだ抒情派詩人。
そんな彼は、建築の分野でも才能を開花させていました。
文学に傾倒しつつ、建築家としての道も歩んでいた、立原道造。
彼が分岐点で選んだyesとは?
詩人、立原道造は、1914年、現在の中央区東日本橋に生まれた。
父は、発送用の木箱をつくる職人だったが、立原が5歳のときに亡くなった。
店の名は「立原道造商店」という名に代わった。
尋常小学校では6年間、主席で通した。
子供向けの科学雑誌を愛読、12歳のときには手作りの本をつくった。
ただ体が弱かった。神経衰弱を患い、中学の1学期を休学。
そのころ、天体観測に興味を持つ。
第一高校時代は、理系でありながら詩作に励み、短歌を詠んだ。
好きな女性にあてた詩集も書いた。
東京帝国大学工学部建築学科に入学。
歌人の師匠だった近藤武夫に、建築をすすめられた。
「立原の健康が心配だ。詩だけでは食べていけぬ。建築はいいぞ、なんせ総合造形芸術だ」。
絵を画くことが好きで、数学が得意だった立原を知っての助言。
立原も思った。
「確かに建築ならば、両立できそうな気がする」。
こうして入った建築学科。彼は瞬く間に頭角をあらわす。
建築学科の学生を対象にした辰野賞を3年連続で受賞する。
もともと理系的なセンスが備わっていた。
思えば詩も、形にこだわり、14行。
そんな彼に建築家としての花を開かせる出来事があった。
避暑地、軽井沢との出会いだった。
詩人、立原道造が初めて軽井沢を訪れたのは、彼が東京帝国大学に入学した年だった。
友人と訪れた追分の風は、病弱な彼をふわっと包み込み、優しかった。
つるや旅館に堀辰雄をたずねたが留守だった。
次に室生犀星の家を訪問。そのときの立原の様子を室生犀星の娘は、こんなふうに書き記している。
「黒い学生服の道造さんは、前の髪の毛がパラリと額にかかり、大きい目をした優しい感じの人であった。道造さんは父とひとこと、ふたこと話をすると、すぐ茶の間に戻ってきて、母や弟、私と遊んだ。彼は無口で大人しい青年であったが、母や私たちの前ではよく話をした」。
立原は、室生犀星の庭にやすらぎを感じた。
と同時に、軽井沢の教会や風景は、建築家としての目を開眼させた。
翌年、彼は浅間山の噴火を体験する。虚弱な身体に響く音。
この地にいれば、詩作もすすみ、建築家としてのアイデアも生まれた。
卒論設計。テーマは「浅間山麓に位する芸術家コロニーの建築群」。
この制作でも、彼は辰野賞を受賞した。
芸術と建築。彼にとっての2つの道を、ひとつに融合させた。
大学を卒業した立原道造は、石本建築事務所に就職した。
朝から夜まで図面をひく。詩作も辞めなかった。
結局、彼はどちらの道も捨てなかった。
病弱な体にむちうって、自ら、「風信子(ヒアシンス)建築事務所」を立ち上げ、5坪の洋風ワンルーム「ヒアシンス・ハウス」の設計図を画いた。
それは今の時代を先取りしたような、画期的な小住宅だった。
森の中に建つ、小さな家。
その窓にはレースのカーテンがかかり、男と女がブレックファーストを食べている。
彼は本気でその家を建てようと考えていた。
当時、好きだった女性、同じ建築事務所の水戸部アサイへの恋慕もあったに違いない。
しかし思いはかなわない。
1939年、立原道造24歳の春。
東京の結核療養所で息をひきとった。
彼が亡くなる朝、粉雪が舞ったという。
第1回中原中也賞を受賞した翌月のことだった。
彼の設計したヒアシンスハウスは60年の時を経て、埼玉県に建てられた。
彼は、設計に際して、こんな言葉を書きとめた。
「僕は窓がほしい。たったひとつ・・・」。
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