yes!~明日への便り~presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ

第二十二話 道を選ぶ -詩人・建築家 立原道造-

yesとは?

  • 語り:長塚圭史
  • 脚本:北阪 昌人

『自分にyes!と言えるのは、自分だけです』
今週あなたは、自分を褒めてあげましたか?
古今東西の先人が「明日へのyes!」を勝ち取った命の闘いを知る事で、週末のひとときをプレミアムな時間に変えてください。
あなたの「yes!」のために。

―放送時間―
TOKYO FM…SAT 18:00-18:30 / FM大阪…SAT 18:30-19:00
FM長野…SAT 18:30-19:00 / FM軽井沢…SAT 18:00-18:29

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第二十二話道を選ぶ

信濃追分には、分去れの碑があります。
分岐点の分に、去っていくと書いて、分去れ。
言葉どおり、越後へ通じる北国街道と京都に向かう中仙道の分かれ道です。
江戸時代から旅人たちは、ここで別れを惜しみ、たもとを分けて、それぞれの道を目指しました。
この追分の分去れを、詩に詠んだ作家がいます。
立原道造。彼が詠んだ詩は、こうです。

「咲いているのは みやこぐさと
指につまんで 光にすかして教えてくれた
右は越後へ行く北の道
左は木曽へ行く中仙道
私たちは綺麗な雨上がりの夕方に
ぼんやり空を眺めてたたずんでいた
そうして夕焼けを背にしてまっすぐ行けば
私のみすぼらしいふるさとの町
馬頭観世音の草むらに
私たちは生まれてはじめて言葉をなくして立っていた」

立原道造は、帝国大学に入学した20歳の夏に、軽井沢を訪れました。
以来、24歳で亡くなるまで、この地を愛し、たくさんの詩にしました。
14行のいわゆるソネット形式の詩を、まるで音楽を奏でるように詠んだ抒情派詩人。
そんな彼は、建築の分野でも才能を開花させていました。
文学に傾倒しつつ、建築家としての道も歩んでいた、立原道造。
彼が分岐点で選んだyesとは?

詩人、立原道造は、1914年、現在の中央区東日本橋に生まれた。
父は、発送用の木箱をつくる職人だったが、立原が5歳のときに亡くなった。
店の名は「立原道造商店」という名に代わった。
尋常小学校では6年間、主席で通した。
子供向けの科学雑誌を愛読、12歳のときには手作りの本をつくった。
ただ体が弱かった。神経衰弱を患い、中学の1学期を休学。
そのころ、天体観測に興味を持つ。
第一高校時代は、理系でありながら詩作に励み、短歌を詠んだ。
好きな女性にあてた詩集も書いた。
東京帝国大学工学部建築学科に入学。
歌人の師匠だった近藤武夫に、建築をすすめられた。
「立原の健康が心配だ。詩だけでは食べていけぬ。建築はいいぞ、なんせ総合造形芸術だ」。
絵を画くことが好きで、数学が得意だった立原を知っての助言。
立原も思った。
「確かに建築ならば、両立できそうな気がする」。
こうして入った建築学科。彼は瞬く間に頭角をあらわす。
建築学科の学生を対象にした辰野賞を3年連続で受賞する。
もともと理系的なセンスが備わっていた。
思えば詩も、形にこだわり、14行。
そんな彼に建築家としての花を開かせる出来事があった。
避暑地、軽井沢との出会いだった。

詩人、立原道造が初めて軽井沢を訪れたのは、彼が東京帝国大学に入学した年だった。
友人と訪れた追分の風は、病弱な彼をふわっと包み込み、優しかった。
つるや旅館に堀辰雄をたずねたが留守だった。
次に室生犀星の家を訪問。そのときの立原の様子を室生犀星の娘は、こんなふうに書き記している。
「黒い学生服の道造さんは、前の髪の毛がパラリと額にかかり、大きい目をした優しい感じの人であった。道造さんは父とひとこと、ふたこと話をすると、すぐ茶の間に戻ってきて、母や弟、私と遊んだ。彼は無口で大人しい青年であったが、母や私たちの前ではよく話をした」。
立原は、室生犀星の庭にやすらぎを感じた。
と同時に、軽井沢の教会や風景は、建築家としての目を開眼させた。
翌年、彼は浅間山の噴火を体験する。虚弱な身体に響く音。
この地にいれば、詩作もすすみ、建築家としてのアイデアも生まれた。
卒論設計。テーマは「浅間山麓に位する芸術家コロニーの建築群」。
この制作でも、彼は辰野賞を受賞した。
芸術と建築。彼にとっての2つの道を、ひとつに融合させた。

大学を卒業した立原道造は、石本建築事務所に就職した。
朝から夜まで図面をひく。詩作も辞めなかった。
結局、彼はどちらの道も捨てなかった。
病弱な体にむちうって、自ら、「風信子(ヒアシンス)建築事務所」を立ち上げ、5坪の洋風ワンルーム「ヒアシンス・ハウス」の設計図を画いた。
それは今の時代を先取りしたような、画期的な小住宅だった。
森の中に建つ、小さな家。
その窓にはレースのカーテンがかかり、男と女がブレックファーストを食べている。
彼は本気でその家を建てようと考えていた。
当時、好きだった女性、同じ建築事務所の水戸部アサイへの恋慕もあったに違いない。
しかし思いはかなわない。
1939年、立原道造24歳の春。
東京の結核療養所で息をひきとった。
彼が亡くなる朝、粉雪が舞ったという。
第1回中原中也賞を受賞した翌月のことだった。
彼の設計したヒアシンスハウスは60年の時を経て、埼玉県に建てられた。
彼は、設計に際して、こんな言葉を書きとめた。
「僕は窓がほしい。たったひとつ・・・」。

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PROFILE

  • 長塚 圭史

    語り:長塚 圭史

    1975年生まれ。東京都出身。96年、演劇プロデュースユニット「阿佐ヶ谷スパイダース」を旗揚げ、作・演出・出演の三役を担う。08年、文化庁新進芸術家海外研修制度にて1年間ロンドンに留学。帰国後の11年、ソロプロジェクト「葛河思潮社」を始動、三好十郎作『浮標(ぶい)』を上演する。近年の舞台作品に、『鼬(いたち)』、『背信』、『マクベス』、『冒した者』、『あかいくらやみ~天狗党幻譚~』、『音のいない世界で』など。読売演劇大賞優秀演出家賞など受賞歴多数。
    また、俳優としても、NHK『植物男子ベランダー』、WOWOW『グーグーだって猫である』、WOWOW『ヒトリシズカ』、CMナレーション『SUBARUフォレスター』など積極的に活動。

  • 北阪 昌人

    脚本:北阪 昌人

    1963年、大阪生まれ。学習院大独文卒。
    TOKYO FMやNHK-FMなどでラジオドラマ脚本多数。
    『NISSAN あ、安部礼司』(TOKYO FMなど全国FM37局ネット)、『ゆうちょ LETTER fo LINKS』(TOKYO FMなど全国FM38局ネット)、『世界にひとつだけの本』(JFN)、『AKB48の私たちの物語』(NHK-FM)、『FMシアター』(NHK-FM)、『青春アドベンチャー』(NHK-FM)などの脚本・構成を担当。『プラットフォーム』(東北放送)でギャラクシー賞選奨、文化庁芸術祭優秀賞受賞。『月刊ドラマ』にて、『ラジオドラマ脚本入門』連載中。
    主な著書に『世界にひとつだけの本』(PHP研究所)、『えいたとハラマキ』(小学館)がある。

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NEWS

特別版『オードリー・ヘップバーンが教えてくれる、明日へのyes!』
常盤貴子さん長塚圭史さん
風も、雨も、自ら鳴っているのではありません。 何かに当たり、何かにはじかれ、音を奏でているのです。
誰かに出会い、誰かと別れ、私たちは日常という音を、共鳴させあっています。
YESとNOの狭間で。
あなたは、自分に言っていますか?
YES!ささやかに、小文字で、yes!
毎週土曜日、明日(あした)への希望の風に吹かれながら、自分にyes!と言ったひとたちの物語を朗読でお届けしている番組『yes!明日への便り』。 1月8日は、その特別版「オードリー・ヘップバーンが教えてくれる、明日へのyes!」をお送りいたします。
2018年に没後25年を迎える稀代の大女優オードリー・ヘップバーンの波乱万丈な人生―女優になるまでの波乱に満ちた半生、輝かしい女優時代、ユニセフ親善大使として世界中の子どもたちに尽くした晩年までを、 女優の常盤貴子さんが演じます。
長塚圭史は「語り」の部分やオードリーの夫、また彼女の人生に影響を与えた映画監督の役を担当します。女優、オードリー・ヘップバーンが、私たちに教えてくれる、明日へのyes!とは?

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