第二百四十五話大切なものを守り抜く
谷岡ヤスジ。
その画風は、大胆で自由。
極度にまで省略された線はまるで一筆書きのようですが、読者はそこに、人生の無常や哀しさ、生きるための哲学を読み取りました。
赤塚不二夫は、こんなコメントを残しています。
「谷岡マンガの出現は、強烈だった。従来の漫画のセオリーを無視していたが、インパクトがあった。なかでもセリフがうまかった。ボクが思うに、セリフづくりが一番うまかったんではないか。漫画というのはセリフは補助的な役目で、ある意味では無駄なスペースでもある。しかし彼の作品ではセリフに絵にもまさる面白さがあって、それがひとつの漫画でもあった。毎週、おなじみのキャラクターを登場させ、同じパターンを繰り返しながら、なぜか面白い。不思議だった。彼は天才だった」。
文筆家で『暮らしの手帖』の編集長だった松浦弥太郎は、谷岡が切り取るワンシーンを、20世紀を代表する写真家、アンリ・カルティエ=ブレッソンと同じ構図だと評しました。
コピーライター糸井重里は、谷岡が描くユートピア「村(ソン)」に触発され、1980年、矢野顕子に詞を書きました。
『SUPER FOLK SONG』。
時を経て、2017年、糸井は再び、谷岡の世界観を再現するかのように『SUPER FOLK SONG RETURNED』を書き、配信されたジャケット写真には、谷岡ヤスジ作品『アギャキャーマン』が使われたのです。
下ネタありのぶっとんだギャグマンガ。
そこには救いも癒しもない。
それでも読者からの人気は高く、芸術家たちは絶賛しました。
谷岡マンガには、どんな秘密があるのでしょうか?
彼が画くシンプルな水平線の向こうには、荒れ狂う海が隠れていたのです。
孤高の漫画家・谷岡ヤスジが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
ギャグ漫画界の巨匠・谷岡ヤスジは、1942年8月29日、愛媛県宇和島市に生まれた。
ふるさとが大好きだった。
西は、宇和海。
複雑な入り江が続く、海岸線。
豊かな漁場。
たくさんの漁港。
他の三方は山に囲まれていて、のどかな風景が拡がっていた。
父が事業に失敗して、東京に移り住むことになったとき、経済的な心配より、宇和島の景色と離れるのが哀しかった。
高校に入ると、授業中の教科書やノートへの落書きから始まり、やがて四コマ漫画を画くようになる。
いくつか投稿するが、なかなか採用されない。
新聞の連載漫画や漫画雑誌を読み、独学で学ぶ。
高校2年のとき、ようやく『中国小学生新聞』に採用される。
うれしかった。
もう、漫画以外、好きになれるものが見つからない。
当時、『少年』という雑誌に「ナガシマくん」という漫画を連載していた、わちさんぺいの弟子に志願。
わちも、中国新聞が漫画家としてのスタートだった。
谷岡ヤスジは、どんなに師匠に怒られてもつらくても、諦めなかった。
谷岡を支えたのは、谷岡の漫画を見た父のこんなひとことだった。
「いやあ、たいしたもんだ、お前は天才だ」
赤塚不二夫と双璧をなすナンセンスギャグ漫画の至宝、谷岡ヤスジは、早くアシスタント生活を抜け出したかった。
編集者に、自分の漫画を売り込む。
ダメ出しばかりが返ってくる。
激しく落ち込んでも、何を言われたか、何がダメだったか、事細かくノートにメモした。
さまざまな出版社に持ち込む。
門前払い。
あるいは、痛烈な否定。
悔しかった。
力のない自分が情けない。
こてんぱんに叩きのめされ、家に帰る道すがら、砂利道に映る自分の影を見て、アイデアがひらめく。
どんなに涙がこぼれても、漫画を画くことをやめようとは思わなかった。
24歳のとき、ようやく独立。
当時、大人向けのギャグ漫画は未知の領域。
売れない。食べていけない。
それでも、ギャグ漫画にこだわった。
シンプルな線で、読者に想像してほしい。
大笑いでなくていい。
くすっと笑ってくれれば、あるいは、「バカだなあ、こいつ」と突っ込んでもらえればそれでいい。
どんなに画いても、もう一歩、上にいけない苦しみがあった。
ある日、ふと気づく。
「ボクは、ギャグ漫画を画いているのに、どうして起承転結、従来の漫画にこだわっているんだろう。漫画って、もっと自由でいいんじゃないのか?」
伝説の漫画家、谷岡ヤスジは思った。
「ボクが、ギャグ漫画が好きなのは、しみったれた日常を客観視して笑えるからだ。ナンセンスでいいはずなのに、どうしてボクは、今までの漫画に合わせようとしてしまうんだろう…」
1970年。
講談社の『週刊少年マガジン』に連載した「ヤスジのメッタメタガキ道講座」では、従来の構成を無視。
突然吹き出す鼻血がシュールだった。
この漫画が大ブレイク。
流行語まで産み出した。
売れっ子になっても、仕事は断らない。
画いて、画いて、画きまくった。
月に200枚以上。
睡眠時間は、2時間だった。
右手の指にできたペンダコは、パチンコ玉より大きくなった。
谷岡はインタビューにこう答えた。
「肉体的な苦痛なんて、なんでもないですよ。やりたいことがやれている、こんな幸せないですから。やりたいことがあるのにやれない、そんな精神的な苦痛に比べれば、なんてことないんです」
後輩の漫画家には、こう諭した。
「読者を自分の作品でどこかに連れていこうだなんて、おこがましいよ。たくさんのひとを連れていこうとすると、自分の画きたい世界を手放すことになる。大事なのは、たったひとりでいいから、深く届けることなんだよ」
晩年になればなるほど、画く線は削ぎ落され、シンプルになっていく。
村と書いてソンと読む、彼が描いた桃源郷は、どこか宇和島の風景に似ていた。
のどかで静か。
馬も牛もひとも、同様に愚かで優しい。
谷岡ヤスジは、56年の生涯を、大切なものを守り抜くことで全うした。
【ON AIR LIST】
ヤスジのオラオラ節 / 谷岡ヤスジ
SUPER FOLK SONG / 矢野顕子
ヘヘヘイ / 奥田民生
SUPER FOLK SONG RETURNED / 矢野顕子
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