第六十三話己の道をゆく
1886年の帝国大学令により、創設された高等中学校。
東京の旧制一高、京都の三高に次ぎ、金沢に作られたのが、四番目の高等中学、旧制第四(だいし)高等学校です。
記念館は今も、当時の姿を留め、そこに学び通った学生たちの幻影を映し出してくれます。
ここに通い、そして後にここで教授の職を持った偉大な人物がいます。
世界に名を轟かせた日本を代表する哲学者、西田幾多郎。
彼が、四高で教鞭をとっていた頃、足しげく通った場所があります。
金沢市にある卯辰山です。
ひがし茶屋街からもほど近いこの場所に、心を洗うと書く「洗心庵」がありました。
西田は、ここで座禅を組んだのです。
跡地には、ささやかに石碑が建っています。
「西田先生は四高教授のころ、約9年間ここへ参拝され教えを受けました」
そう書かれた案内板のあたりには手つかずの自然が残っています。
木々の匂いがします。鳥の鳴く声が聴こえます。
遠く眼下に川をのぞめば、静かな心が降りてきます。
哲学者・西田幾多郎は、ここで何を思い、何を考えたのでしょうか。
西欧文化の波が押し寄せる中、日本的な心、日本的な精神の根幹をひもといた、西田哲学。
彼の人生は哀しみと苦しみの連続でした。
そんな彼が到達した境地は、こうでした。
「哲学の動機は、人生の悲哀でなければならない」
西田幾多郎が、我々に問いかける、人生のyes!とは?
有名な著書『善の研究』で日本人として初めて体系的な哲学を明示した、哲学者・西田幾多郎は、1870年石川県かほく市に生まれた。
かほく市はかつて、能登地方と加賀地方をつなぐ宿場町として栄えた海辺の街。
西田家は、江戸時代からこのあたりを収める「十村(とむら)」という重職についていた。
父は自宅の一部を開放してこの地最初の小学校をつくった。
自ら校長になり、生徒に教えた。
そんな父を幾多郎は誇らしく思った。
幾多郎の成績はずば抜けていて、本を読むのが好きだった。
順風だった環境が一転するのは、明治時代が始まる頃。
今までの身分や財産は無きものになった。
そんな激動の幕開けに、幾多郎は金沢に行くことを願った。
反対する親を説得してくれたのは、姉の尚だった。
親は尚と共に金沢で暮らすことを条件に承諾した。
しかし、全国に広まったチフスに感染し、姉はわずか17歳でこの世を去った。
幾多郎が味わう最初の辛い哀しみだった。
「できるなら自分が身代わりになりたかった!」
のちに、幾多郎は何人もの大切なひとを失うことになる。
心の傷が彼を駆り立て、彼に心のありようを探求するきっかけを生んだ。
ひとは、傷なくして、何かを手にすることは困難である。
哲学者・西田幾多郎は、金沢で運命的な出会いをする。
北条時敬に数学を教わった。
北条は最高学府、帝国大学を出て石川県専門学校で教鞭をとっていた。
早くから西田の数学の才覚に気が付いた。難しい問題を難なく解く。
書生として可愛がった。
北条は勉強だけではなく、禅も教えた。
「自らを律することができないものは、学問でも道は開けない」
西田は必死に数学を学ぶ。そんな中、彼はある一冊の本に出合う。
井上円了の『哲学一夕話』。
哲学という学問に初めて触れ、衝撃が走った。
自分の存在、考えていること、全てを突き詰めていく。
生きるとは何か、姉が亡くなり、自分が今まだ生きていることの理由とは何か。
哲学は、面白い。
予科から本科にすすむとき、数学か哲学か、どちらかを選ばなくてはならなかった。
恩師・北条は言った。
「哲学者になるには、詩人的な想像力が必要だ。キミにはそういう能力があるかね?キミには数学の才があるのだから、そちらにしなさい」
でも西田は、約束された数学の道ではなく、哲学を選んだ。
困難であろうとも、己の心に背くことだけはしたくなかった。
哲学者・西田幾多郎は、哲学の道に没頭した。
あまりに本を読み過ぎて、目を患い、失明の危機にまで追い込まれても、勉強をやめなかった。
同志、鈴木大拙と哲学について語り、禅を教わった。
帝国大学の哲学科選科を修了し、教師になった。
いくつかの学校を転々として、母校、第四高等学校に職を得たのは、29歳のときだった。
恩師・北条が校長を務めていたので呼んでくれたのだ。
西田はデンケン先生と呼ばれた。デンケンとはドイツ語で考える。
その名のとおり、いつも考えていた。
身の回りのことはかまわず、いつも同じ服を着て、歩きながら本を読んだ。
ひとと違うということを厭わず、己の真理だけを追究した。
部屋の掛け軸にはこう書いた。
「一日不作、一日不食(いちにちなさざれば、いちにちくらわず)」。
世の中のためになることを何もできていない自分に腹が立つ。
そうした中、弟を戦地で亡くし、子供を病で失う。
亡骸に号泣しながらすがっても、事態は変わらない。
大切なひとたちの死に直面するたびに、己に問うた。
「この悲哀を、修練にできるのか?」
我が子の死に、悔やむ自分。もっと何かできたはずだ。
でも、それは自分のおごりなのかもしれないと猛省する。
必要なのは、後悔ではなく懺悔なのかもしれない。
座禅を組み、たどり着いたのが、無という境地だった。
「我が心 深き底あり 喜びも憂いの波も 届かじと思う」
西田はたびたび歌を詠んだ。
全ての感情が届かない深い深い心の底。
今、哀しんでいるのは、哀しみという鏡で心を写しているからではないか。鏡を代えさえすれば、感情も変わるのではないか。
深く深くもぐっていけば、やがて全てのものと一体になる。
絶対的な基準にあるのは、善きこと、誠。
そこのみをはずさなければ、存在に差別も区別もない。
だから日本人は空に浮かぶ雲の気持ちになれた、風に揺れる木々の想いに寄り添えた。
西欧の拡大していく文化ではなく、深く降りて万物と一体化する個性。
西田は迷い人に言うだろう。
あなたの想いを全うしなさい。己の思いに忠実でありなさい。
心に降りて行けば、必ず道は開ける。
「ひとはひと、我は我なりともかくも、我がゆく道を 我はゆくなり」
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