第二十三話二つのJ
森の中に、存在感のある建物が姿を現します。
『石の教会・内村鑑三記念堂』。
明治、大正と、キリスト教の布教に邁進し、日本人とは何か、後世に何を伝えるべきかに心を砕いた賢人、内村鑑三。
彼を讃えるために造られた教会は、一階が礼拝堂で、地下が記念堂になっています。
自然と調和する、圧倒的な石の静けさ。繊細なガラスの優しさ。
まるでこの地が出来たときからここにあるかのような一体感が、訪れるひとの心を癒します。
空をゆく鳥も、吹き抜ける風も、石の教会に敬意をはらっているように感じます。
石とガラスのアーチが幾重にも重なる、この建築を手がけたのは、アメリカの建築家、ケンドリック・ケロッグ。
石は男性をガラスは女性を象徴すると、言われています。
内村鑑三がとなえた、無教会思想。
祈れば、そこが教会になる。
彼のしなやかで、真摯な心は、今もここに生きています。
同時代の中でさまざまな軋轢(あつれき)と闘いながら、高尚で勇ましい態度を変えなかった男が、生涯を通じて見つめ続けたyesとは?
キリスト教思想家にして、文学者、内村鑑三は、1861年、高崎藩士の長男として江戸・小石川の武家屋敷に生まれた。
三度自分を鑑(かんが)みるべし、という教えから、鑑三という名がつけられたと言われている。
父は、鑑三が幼少のとき、群馬県高崎市での謹慎を命じられた。以来、高崎で教育を受ける。
そこで出会ったのが、英語。
彼は英語にひかれ、12歳のとき、単身上京して有馬学校英語科に入学した。
東京外国語学校に進んだとき、病のため、一年の休学を余儀なくされる。
しかし一年遅れたことで、翌年入ってきた二人の同級生に出会う。
後に教育者、思想家となる新渡戸稲造。
そして後に植物学者になる宮部金吾である。
三人の友情は生涯続いた。
そして、もうひとつ彼の一生を決める出会いがあった。
英文購読で読んだ『旧約聖書』。
1877年、明治10年のとき、新渡戸、宮部らと共に札幌農学校に入り、洗礼を受けクリスチャンになった。
当時、札幌には教会がなかった。
「オレたちが交代で牧師をやろうじゃないか」
毎週日曜日、学内で礼拝をおこなった。
三人は、これからの人生を二つのJに捧げることを誓い合った。
ひとつは、ジーザス、キリスト教。もうひとつは、ジャパン、日本。
内村は思った。
「オレは、日本のために、何ができるのか?」
内村鑑三はキリスト教の思想家ととらえられているが、一般的なキリスト教信者とは少し趣が違う。
教会も教義もない。祈ればそこが教会になり、たちまちイエスとつながれる。いわゆる無教会思想。
差別や拝金主義が嫌いだった。
23歳のとき、自費でアメリカに渡ったとき、本場のキリスト教の実態に幻滅を覚えた。
古来、日本において「学ぶ」とは知識を得ることではなかった。
人知を超えた天の声に耳を傾けることのできる霊性を身につける。
それこそが第一義ではなかったか。
ひとと比べる教育を最も嫌った。
「なぜ、そのひとを評価するとき、誰かと比べなくちゃいけないんだ?」
一方で、怠慢、怠惰を憎んだ。
「キュウリを植えれば、キュウリとは別のものが収穫できると思うな。いいか、ひとは、自分が植えたものを収穫するんだ!」
内村鑑三の人生は、決して平たんでも順風に背中を押されるでもなかった。
教育勅語への登壇、最敬礼をしなかったと揶揄され、社会問題になった。
妻の死、娘の死、多くの辛い別れを経験した。
精神を病んでいた母を失ったときは、「おまえのせいだ」と肉親になじられ、家族とは絶縁状態になった。
それでも、内村は、二つのJのために前に進んだ。
信仰と、自らの存在証明。後のひとに何を残すか。
各地を転々としながら、彼の旅は休むことを知らなかった。
『人間が後世に残せるもので、誰にでもできることがある。それは、高尚なる勇ましい人生だ』。
内村鑑三は言った。
高尚なる、勇ましい人生。まさしく、彼こそがそれを実現した。
47歳のとき、『代表的日本人』という評伝を英語で刊行し、世界に日本人の魂を説いてみせた。
取り上げたのは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮という五人の生涯。
彼は決して偉人伝を書こうとはしなかった。
内村鑑三という自らの人生を投影しつつ、人知を超える大きな意志を書いた。
彼ら五人は、そして内村自身も、人間を超えたものの存在を感じ、その意志に忠実だったに違いない。
そして内村は、日本人がそもそも持っていたもの、かすかな声に耳を傾けることのできる感性や、信じる心を忘れてはならないと説いた。
内村は、語った。
「この世は悪魔が支配するのではなく、神が支配する。失望の世の中ではなく、希望の世の中である」。
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