第八十六話自分に向き合う時間
教科書にも掲載されることが多い、太宰治の『富嶽百景』の一文は有名です。
「富士には月見草がよく似合う」。
山梨県河口湖に通じる御坂峠には、この言葉が刻まれた文学碑があります。
文字は太宰の直筆が使われました。
『富嶽百景』の原稿は残っていなかったので他の作品から一字ずつ抜き取り、太宰の署名は、絶筆『グッド・バイ』からとったと言われています。
この石碑を立てるために奔走したのは、太宰の恩師、井伏鱒二でした。
井伏は、不健康で自堕落な暮らしをしている太宰を、この峠に連れてきて、3か月間、天下茶屋に住まわせました。
さらに、甲府に住む女性、石原美知子を紹介し、夫婦の契りを結ばせたのです。
太宰にとって、富士山とは、最も自分と対極にあるものだったに違いありません。
どっしり構えて、ゆるぎない。圧倒的な存在感。
華やかな人気を持ち、万人に愛される。
霊峰と崇められたかと思うと、銭湯の壁面に描かれる。
神と通俗をいとも簡単に行き来する唯一無二の象徴。
太宰は思いました。
「かなわない。富士には、かなわない」。
それでも彼は、3か月間、かすかな風にも揺れる月見草のように、富士山と向き合いました。
この時期を境に、彼は旺盛な執筆活動に入り、『走れメロス』『斜陽』や『人間失格』など、後世に読み継がれる傑作を世に出しました。
ひとには、自分と向き合う時間が必要です。
たとえそのときは無駄に思えても、立ち止まって対峙する。
その勇気と覚悟こそ、成長の礎なのかもしれません。
作家・太宰治が、富士山に教えられた、明日へのyes!とは?
作家・太宰治は、1909年6月19日、青森県北津軽郡金木村に生まれた。
本名・津島修治。
津島家は村の名士で、大地主。父は政治家でもあった。
忙しい父と病弱な母。
太宰は、乳母に預けられ、やがてその乳母の代わりに叔母に育てられた。
肉親の愛を知らない。
自分が生まれてきてよかったのか、確信が持てないまま大きくなった。
学業は優秀。
どんな学科も常に一番だったが、素行は悪かった。
喧嘩にいたずら。ふざけては友達を笑わせた。
誰かが笑ってくれるときだけ、「そこにいてもいいよ」と言ってもらえた気がした。
作文は得意だった。
漠然とした作家への想いが明確になったのは、中学3年の時。
学校に向かう赤い橋の上で、ふと、言葉が降りてきた。
「作家になろう、作家になって、えらくなろう」。
思い立つと、行動は早かった。
仲間と同人誌をつくり、小説を書いた。
友達は驚嘆する。
「おまえ、すごいな、すぐにでも作家になれるよ」。
芥川龍之介に傾倒。
井伏鱒二の「山椒魚」を読んで体が震えた。
「すごい、この世には、とんでもない小説を書くひとがいる。オレも、彼らと肩を並べたい」。
しかし、青雲の志も、長くは続かなかった。
彼の心にある、寄る辺ない思い。
自分の存在意義が見いだせない根無し草は、人生という大海でさまようことになる。
作家・太宰治は、高校に入ると、芸者遊びにはまってしまう。
実家が裕福なのをいいことに、放蕩三昧。
当時、勤め人の給金が月に40円だったのに、100円も200円も使う。
あげくの果ての自殺未遂。
それはまるで、親への復讐のようにも思えた。
ただ、小説を書くことだけは、なんとか続けていた。
自分のステージをあげるもの、自分の存在意義を示すものは、小説よりほかにない。そう思っていた。
東京帝国大学に入り、上京。
井伏鱒二に師事。弟子になった。
しかし心はすぐ折れる。
自分には根っこがない。ひとの評価が気になる。
認めてもらわないと、ひどく落ち込む。
この世に必要がないのではないかと思う。
度重なる自殺未遂と睡眠薬の多量摂取。
評価を他人にゆだねたがゆえの、不安定な毎日に耐えきれない。
さらに追い打ちをかける出来事が起こる。
絶対的な自信を持って書いた小説が、芥川賞、落選。
選考委員の川端康成が、太宰の自堕落な私生活に触れると、太宰は激昂して、こう言い放った。
「小鳥を飼い、舞踏を見るのが、そんなに立派な生活なのか!」
同時に、自分がブルジョアジーであることを恥じた。
相変わらず親の影におびえている自分を、恥じた。
ますます堕ちていく太宰治を案じた井伏鱒二は、彼を富士山のふもと、御坂峠の天下茶屋に呼んだ。
「ここで、静養しなさい」。
太宰は、29歳になっていた。
書くこと、作家として生きていくことには、自信と確信があった。
でも、肝がすわらない。
幼い頃、両親に愛された記憶がないということが、亡霊のように彼につきまとう。
「オレは果たして、この世に生まれてきて、よかったんだろうか」。
かつて東京の住まいから、富士山を見て泣いた。
便所の窓から見えたその山は、とてつもなく立派だった。
「とうてい、かなうはずもない」。
その一方で、富士山を馬鹿にもしていた。
「どうせ、銭湯の壁のペンキ絵だ」。
実際、目の前に富士山を仰ぎ見て、太宰は思った。
「なんだろう、このゆるぎない存在感は…」。
富士山の表情はさまざまだった。
でも、ただ、そこに在る。
自分に欠けているものが、わかった。
そこに在るだけでいいと、自分で自分に言ってあげるということ。
評価を誰かにゆだねないということ。
太宰治は、3か月間、ただただ、富士を眺めて過ごした。
彼が見ていたのは、自分だった。
親の愛を受けていないことを甘えの隠れ蓑にしていた。
自分は富士山にはなれないだろう。
でも、その富士山に真っすぐ対峙する、ささやかな月見草になら、なれるかもしれない。
揺れることでかすかな風の存在を示す、小さな花になりたい。
富士山と過ごした時間を経て、太宰は傑作を生む10年間を得た。
彼は書いた。書いて書いて、書き続けた。
しっかりと自分に向き合った3か月間が、彼の背中を押した。
自分から逃げてはいけない時がある。
向き合って初めてわかる、大切な根っこがある。
太宰治は、弱さという根っこに気づいた。
そしてそれを生涯の友にした。
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四月になれば彼女は / サイモン & ガーファンクル
By This River / Brian Eno
Blue / Joni Mitchell
花 / 中孝介
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