第百三話かぶりついて仕事せよ!
「舟越保武(ふなこし・やすたけ)の手紙」。
無数の書簡には、日本を代表する彫刻家、舟越保武の創作への苦悩や情熱、意気込みや逡巡が綴られています。
注文を受けても、なかなか思うように制作が追い付かないことを詫びる手紙には、彼の誠実で繊細な人柄が偲ばれます。
『お手紙いただきました。大変ご迷惑をおかけしていることを知っていましたが、いつも曖昧な返事で申し訳ありませんでした。この夏までには以前に作ったものを仕上げ直して設立したいと考えております』。
同じく盛岡市にある岩手県立美術館にも、舟越保武の展示室が常設されています。
そこには画家の松本竣介の絵も一緒に展示されています。
舟越と松本は、同じ年に生まれ、同じ岩手県立盛岡中学校、現在の岩手県立盛岡第一高等学校の同期生でした。
気品と優美さがあふれる女性像やキリスト教にまつわる聖人を、大理石やブロンズという石で表現した彫刻家、舟越。
東京の街を独自のモンタージュ技法でリリカルに描いた画家、松本。
二人の出会いと交流は、舟越ののちの人生に大きな影響を与えました。
36歳の若さで亡くなった親友、松本竣介の分まで、必死に生きようともがいた舟越。
ひとは、若き日に出会った風景、出来事、そして人に、生涯の糧を得るのかもしれません。
石彫りという、まだ日本で誰も本格的に取り組まなかった題材に果敢に挑戦し、戦い抜いた男、舟越保武。
彼が親友に学び、石を彫り続けることでつかんだ人生のyes!とは?
彫刻家、舟越保武は、1912年、岩手県一戸町に生まれた。
父は、敬虔なカトリック信者。地元の駅の駅長だった。
3歳のとき、父の転勤で盛岡に移り住む。
ほどなくして、母が亡くなる。
学業は優秀だった。岩手県立盛岡中学校に入学。
しかし、16歳のとき、右足が骨膜炎にかかる。
二度手術したが、治らない。
痛みに眠れない。右の足首をうまく回せない。
松葉づえの生活を余儀なくされた。
それでも、学校には休まず通った。
と同時に、他のひとと同じように生きられない自分も感じた。
同期に、松本竣介という生徒がいた。
このときはまだ、お互い親しく話をすることはなかった。
17歳のとき、兄からある本をもらった。
世界的な彫刻家、オーギュスト・ロダンの言葉を集めた本。
訳したのはやはり彫刻家の高村光太郎だった。
何気なしに読み始め、体が震えた。感動した。
ロダンの言葉が心に突き刺さった。
「美は、いたるところにあります。美が我々の目を背くのではなくて、我々の目が美を認めそこなうのです」
「芸術とは自然が人間に映ったものです。肝心なことは、鏡を磨くことです」
「自然は常に完全です。決して間違いはない。間違いは、我々の立脚点、視点のほうにある。骸骨にすら、美と完全がある」
さらにロダンは言った。
「情熱を持って君たちの使命を愛せよ。これより美しいことはない。君たちの使命は凡俗の考えるよりも遥かに高い」
「かぶりついて仕事せよ」
かぶりついて、仕事せよ。その迫力に舟越は、涙ぐんだ。
『ロダンの言葉』に感銘を受けた舟越保武は、彫刻に魅かれた。
美術書をよみあさる。見様見真似で、粘土をこねてみる。
ダメだ。うまくいかない。
彫刻の基本がデッサンにあることに思い至る。
来る日も来る日も絵を画いた。
デッサン、スケッチに油絵。彫刻がやりたい。
ロダンのように、高村光太郎のように、彫刻がやりたい。
その思いは強くなり、兄に、東京美術学校、現在の東京芸術大学に進みたいと言った。
師範科を受験するも、2年続けて不合格。
落ち込んだ。もうダメかと思う。
でも、最後のチャンスに彫刻科を受けさせてほしいと再び懇願。
見事、合格を果たした。
上京して、うれしい再会があった。
盛岡中学時代の同期、松本竣介。
彼もまた画家を志し、必死に絵を画いていた。
松本は幼い頃の病気がもとで、耳が聴こえなかった。
舟越が空中に指で字を書いて会話した。
松本はいつも明るかった。落ち込む舟越を励ましてくれた。
舟越が、
「僕の作品には爆発力がないんだ、破天荒な芸術家に憧れるが、全然なれないよ」
というと、松本は言った。
「馬鹿だな、舟越。個性なんてもんは、本来全ての人間に備わっているんだ。何を焦っているんだ。おまえにはおまえにしかできない彫刻があるだろう。たとえば、気品だ。いいか、品格ってやつは、いくらお金を出しても買えないんだ」
二人の親交は、松本が36歳の若さで亡くなるまで続いた。
松本の死を受けて、舟越は思った。
「俺はもう、中途半端は嫌だ。とことんやる。誰もやっていない仕事をやりぬいてみせる。松本、見ていてくれ。俺は負けない」
彫刻家、舟越保武は、練馬のアトリエ近くにあった大理石工場で、赤みを帯びた大理石に出会った。
これだ!と思う。
「この石で彫刻しよう」。
以来、彼は石と格闘する人生を選んだ。
長男を病で失ったことをきっかけに、洗礼を受けた。
キリスト教に関連する作品を次々と作った。
1962年、50歳のとき、『二十六聖人殉教者像』で、第5回高村光太郎賞を受賞。
うれしかった。あこがれのひと、高村光太郎の賞をもらえた。
でも、舟越の闘いの旅はまだ始まったばかりだった。
1967年、東京芸術大学の教授になる。
彫刻の奥深さに、畏れを抱く。やればやるほど、難しい。
くじけそうになるとき、いつも松本竣介の声を聴いた。
「舟越、おまえはおまえの道をいけばいい。大丈夫だ。必ず、道は開ける」。
ローマ法王から賞ももらった。文部大臣賞もいただいた。
東京芸術大学の名誉教授にもなった。
それでも、舟越の思いはただひとつ。納得のいく作品が作りたい。
75歳のとき、脳こうそくで倒れる。右半身が不自由になった。
それでも、左手だけで石を彫り続けた。
夭折(ようせつ)した親友の無念を思い、ロダンの言葉を思い出した。
「かぶりついて、仕事せよ!」
最後まで百点満点の仕事など、あるはずはない。
できなかったこと、やれなかった後悔の思いが、次の仕事を生む。
舟越保武は、最後まで石を削るノミを握り続けた。
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