第九十二話孤独から逃げない
今から158年前の1859年6月2日、横浜は修好通商条約に基づき、国際貿易港として港を開きました。
以来、芸術や文化においても、世界との交流の要として栄えてきました。
横浜に生まれた国民的日本画家、東山魁夷(ひがしやま・かいい)もまた、その名を世界に轟かせ、日本の風景の素晴らしさを普遍的なものへと高めた第一人者です。
戦後の日本画を代表する傑作『道』は、たった一本の道が、画面いっぱいに描かれているだけのシンプルな構図です。
まるで見ているひとを、どこかに誘うように真っすぐ伸びる道。
使った色はたったの三色です。
道の灰色、空の青、草地の緑。
「たったこれだけで絵になるのか」
描きながら、東山魁夷も不安を覚えたといいます。
でも彼は、自らの魂を見つめ、迷いを捨て、最初の思いをそのまま絵にしました。
この道は、これまで歩いてきた過去を振り返る道ではありません。これから自分が進むべき道。
余計なものが何もないからこそ、そこに観るひとの心が投影される。
東山魁夷は、常に孤独と向き合うことを己に課しました。
「風景を見るというのは、自分の心を見るということである」。
同じ景色を眺めても、ひとによってその見え方はさまざまです。
すなわち我々は、景色を目で認識しているのではなく、心で確認しているのではないか、そう彼は語っています。
孤独から逃げず見つめた風景は、生涯、自分の宝物になる。
彼はそれをキャンバスにぶつけ、我々に呼びかけたのです。
群れることばかりに必死にならずに、ひとりの時間を大切にしなさい。
自分と向き合う時間のない人生をおくっていると、見える風景が枯れていく。
日本画家、東山魁夷が、魂の遍歴の果てにつかんだ明日へのyes!とは?
国民的日本画家、東山魁夷は、1908年神奈川県横浜市に生まれた。
父は、今でいう商社に勤め、船にまつわる商売をしていた。
独立を求め、会社を退職。横浜から神戸に移った。
横浜と神戸で幼少期をおくった東山魁夷にとって、海や港は自分の原風景になった。
母に連れられて登った丘の上。その記憶は鮮明だ。
夏の朝早く。まだ手付かずの清廉な風が吹いている。
足元の草は、露に濡れ、緑の匂いがした。
背後には山がせまり、目の前には自分が暮らす街が見える。
そして、街の彼方に見えるのが海。
ぽっかり浮かぶ島もあった。
母は、神経質で病気がちな魁夷を連れて、よくこの丘に登ったという。
「お母さんはなぜ、ここに自分を連れてくるんだろう」。
母は、何も言わずに海を見つめる。
魁夷もまた、無言のまま風景を心に刻んだ。
父と母の仲は決してよくなかった。
魁夷は両親の言い争いには耳を貸さぬように、絵を画くことで自分の城をつくった。
唯一、母と一緒に丘に登る時だけが彼にとって、開かれた時間になった。
海の青さが心に沁みた。孤独を初めて知った。
日本画家、東山魁夷は、成績優秀、なんでも器用にこなす才覚を持った。
しかし、ひとの言葉やふるまいに、過敏に反応してしまうところがあった。
「このままでは、この子は心を病んでしまうかもしれない」。
そう案じた母は、学校を休ませることを厭(いと)わなかった。
中学時代も、一学期半ばから夏休みまで学校には行かず、ひたすら絵を画いた。
風に揺れる木々のざわめき、色合いを変えていく山々、陽光にきらめく海の水面。
彼にとって自然とは、人間と対立するものではなく、同化するもの。
山の中の小さな池に緑の木々が映る風景を描き、「静か」という題をつけた。
誰かに見せるために画いた絵ではないが、中学の国文法の先生がその絵を観て褒めてくれた。
「東山、おまえは素敵な絵を画くなあ。先生は、この絵、いいと思う」。
うれしかった。初めて誰かに褒めてもらったような気がした。
先生はそれから、魁夷をさまざまな展覧会に連れていくようになった。
魁夷は、ちゃんとした職業について母を楽にさせてあげたいと望んでいたが、心にふわっと灯りがともった。
「僕は、画家になりたい」。
中学生の東山魁夷は、思った。
「どんなに苦難の道でも、僕は画家になりたい。この道が自分のたどるべき道だと納得する道を歩きたい。絵を画くことが好き、それくらいなら画家にならずとも、趣味で描けばいい。でも、一生を決めることは、もっと熱烈なものがなければならない。心の中を真剣にのぞき込むと、その底に熱い火となって燃えるものが確かにあるように思える。それこそが、真実の道だ」。
東山魁夷は、常に自分の心を見つめた。
風景がどう見えるかは、自分の心次第なのだ。
だから、孤独を恐れてはいけない。
自分ひとりになって、常に自分と向き合うからこそ、あらゆるものからメッセージを受け取れる。
彼は、日本中を回り、世界にも旅して風景を探した。
自分の心に出会うために。
「私にとって、絵を描くということは、誠実に生きたいと願う心の祈りだ。誠実とはどういうことか。自分の心から逃げないということだ。君の目の前に道は見えるか? まっすぐ伸びる、道は見えるか? 見えなければ、孤独を恐れず、心を見つめなさい。全ての答えは、全て君の中にある」。
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