第三百六十話不屈の精神で立ち向かう
瀬長亀次郎(せなが・かめじろう)。
那覇市長も務めた瀬長は、生涯を通して沖縄復帰に尽力しました。
投獄されても、資金を断たれても、市長を追放されても、彼は決してくじけませんでした。
2013年、沖縄県那覇市にできた彼の資料館の名称には、瀬長が大好きだった言葉がつけられています。
その名は『不屈館』。
文字通り、瀬長は、どんな障害にあっても、不屈の精神でアメリカ政府に抵抗し、「アメリカが最も恐れた男」として語り継がれています。
『不屈館』の特長は、瀬長の功績を讃えるためだけの資料館ではなく、彼を愛し彼を支えた民衆の歩みが学べるところにあります。
多くの県民から寄せられた膨大な資料を収集。
アメリカ統治下の貴重な戦後史が展示されています。
県内外の平和学習の場にもなっている『不屈館』には、平和を願った瀬長の強い思いが宿っているのです。
行政の力を借りず、有志の支援だけで運営している『不屈館』にとって、いつ終わるとも知れぬコロナ禍の打撃は計り知れません。
『不屈館』の館長が呼びかけたクラウドファンディングは、1か月も経たぬ間に、目標を達成。
たくさんの支援者による激励の手紙、毎日なり続ける電話に、館のスタッフは目頭を熱くしたと言います。
「ここに、民衆の力がある、まずは声をあげることです」
館内に展示された瀬長の写真が、そう語っているようでした。
SNSのおかげで若い人たちの来館が増え、彼らは瀬長の生きざまを通して、戦後の日本を、沖縄の歴史を知っていくのです。
今年、沖縄復帰50周年を迎え、北海道の苫小牧の映画館では、5年前に公開された瀬長のドキュメンタリー映画が上映されました。
この映画を監督したのは、TBSのキャスターとしても有名な、佐古忠彦(さこ・ただひこ)。
彼は映画を書籍化しました。タイトルは『「米軍が恐れた不屈の男」瀬長亀次郎の生涯』。
佐古は、瀬長のこんな言葉を大切にしています。
「大地にしっかりと根をおろしたガジュマルは、どんな嵐にさらされてもびくともしない」
沖縄の復帰と平和な社会の実現に命を捧げた闘士・瀬長亀次郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
沖縄の政治家にしてジャーナリスト・瀬長亀次郎は、1907年6月10日、那覇の南、現在の沖縄県豊見城市に生まれた。
家は、貧しい農家。
3歳の時、父はハワイへの出稼ぎに応募した。
亀次郎の日課は、ヤギが食べる草を刈ること。
祖父は厳しく、学校から帰ってくる孫に容赦なく仕事をさせた亀次郎は、裏山の松の木に登り、本を読むのが唯一の楽しみだった。
ときには、英語の本も読んだ。
ある日、読書に夢中になり、草刈をさぼってしまう。
祖父に叱られ、家の外に放り出され、ご飯が抜きになる。
でも、母がこっそり、ふかした芋を渡してくれた。
湯気が出る芋。美味しかった。
母は言った。
「ムシルヌ アヤヌ トゥーイ アッチュンドー」
「莚(むしろ)の綾(あや)のように、真っすぐ生きなさい」
言葉の深い意味は、幼い亀次郎には理解できなかったが、彼は生涯、この母の言葉を忘れなかった。
那覇の中学校に進学。
片道、自転車で1時間かけて通った。
地面は舗装されておらず、ボコボコで走りづらい。
それでも、毎日毎日ペダルをこいだ。
亀次郎は、貧困に苦しむ母の姿を見て、心を痛めていた。
「なんとか、この貧しさから抜け出ることはできないものか」
彼は、医者になると決める。
勉強を頑張った。特に、理数系と英語に力を入れる。
成績は優秀。
このまま高校に進学というとき、一通の手紙が彼のもとに届いた。
この手紙が、亀次郎の運命を変える。
中学4年生だった瀬長亀次郎のもとに届いた手紙。
それは、ハワイの父からだった。
父を手伝っていた兄が、亡くなってしまった。
すぐにこっちに来て、手伝ってくれと父は言う。
なけなしの金を使って、ハワイ航路がある、神戸におもむく。
しかしアメリカが排日移民法を施行。
日本人の移民を制限することになった。
船に乗れない亀次郎。
見知らぬ土地で、途方にくれた。
アメリカに翻弄される運命は、このときに始まったのかもしれない。
つてを頼って、たどり着いたのは、東京にいる同郷の先輩、東京帝国大学の学生、喜屋武保昌(きやん・やすまさ)だった。
彼はのちに昭和・大正期のマルクス主義者として、資本主義に一石を投じることになる。
池袋で安アパートを見つけ、亀次郎と喜屋武の共同生活が始まった。
亀次郎は、尋ねる。
「なぜ、貧困が起こるのでしょうか?」
「なぜ、働いても働いても、生活が変わらないのでしょうか?」
喜屋武は、言った。
「世の中の仕組みがおかしいんだよ、亀次郎。オレたちはなあ、でっかい魔物に飲みこまれてしまったんだ」
亀次郎の社会活動家としての礎は、喜屋武によって築かれた。
瀬長亀次郎は、旧制第七高等学校、現在の鹿児島大学に入学。
医者への道は諦めていないものの、社会の仕組みを変えたいという思いは、日増しに強くなっていった。
担任の化学教授・松原多摩喜(まつばら・たまき)との出会いもまた、のちの亀次郎を形成する大事な因子になった。
松原は、共産主義にのめりこみ、逮捕され、学校を追われてしまう亀次郎を、終生、可愛がった。
松原は、化学の例をつかって、こう説いた。
「赤色のフラスコに、いくら黒になれ!と叫んでも、赤は黒を拒絶する。
真理、物事の核となる部分に働きかけない限り、色は変わらない。
瀬長君、大事なのは、真理だ。
弱者をいたわり、真理を求めて前進せよ! 何者も恐れるな!」
松原は、労働争議で投獄された亀次郎のもとへ、足しげく通い、励ました。
沖縄に戻った亀次郎は、あらためて、大きなガジュマルの木を見上げた。
どんな嵐にもビクともしない、ガジュマルの木。
母の言葉が、喜屋武の教えが、松原の優しさが、彼の心の根っこを強くした。
「この沖縄の大地は、再び戦場となることを拒否する! 基地となることを拒否する!」
「この瀬長ひとりが叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。
ここに集まった人々が声をそろえて叫んだならば、全那覇市民まで聞こえます。
沖縄の90万人、人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波をこえて、ワシントン政府を動かすことができます」
民衆の力を信じ、不屈の精神を失わなかった男は、今も、沖縄の大地に根を張っている。
【ON AIR LIST】
涙そうそう / 夏川りみ
時代の流れ / 嘉手苅林昌
おしえてよ亀次郎 / ネーネーズ
★今回の撮影は、「不屈館」様にご協力いただきました。ありがとうございました。
営業時間など、詳しくは公式HPにてご確認ください。
不屈館 HP
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