第百六十話失敗から学ぶ
小説『氷点』の舞台となった林、その木々に囲まれた文学館には、今も多くのひとが足を運んでいます。
アーティストの椎名林檎は、中学生のとき、国語のテストに引用された三浦の小説『塩狩峠』を読んで感銘を受け、さっそく自分で本を買って読んだそうです。
人間の弱さ、人間が抱えてしまう、罪。
そんな重厚なテーマを、わかりやすい、透明な文章で紡いだ作家、三浦綾子。
なぜ、時代を超えて、彼女の言葉はひとびとを魅了するのでしょうか?
最後のエッセイ集『一日の苦労は、その日だけで十分です』の中にこんな一説があります。
「人一倍優れた人間であっても、その自分の偉さをひけらかしたとしたら、何のおもしろいことがあろう。賢い人も失敗する。だからこそ人は安心して笑えるのだ」。
三浦綾子には、三つの大きな苦悩がありました。
戦時中、軍国主義の中、教育にたずさわったこと。
愛するひとを病気で亡くしたこと。
そして、肺結核にかかり、切実に死を感じたこと。
大きな挫折を経験した彼女の語り口は読むひとに寄り添い、まるで背中をなでられているような安心感があります。
彼女は人一倍、強いひとだったのでしょうか?
彼女自身、その問いには、首を振るかもしれません。
弱いから、迷い、傷つき、間違う。
でも、大切なのは、そこから立ち上がる勇気。
そんな思いを作品に刻むために、病魔に痛めつけられた体で、必死に机に向かったのです。
作家・三浦綾子が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
小説家・三浦綾子は、1922年、北海道旭川市に生まれた。
幼い頃から、本を読むのが好きだった。
小学3年生のときには、伯母が読む婦人雑誌を隠れて読んだ。
佐藤紅緑や吉川英治の少年少女小説にものめりこむ。
あるとき、家で菊池寛の単行本を見つけた。
読んでみて驚く。ひとりの男を二人の女が愛するという小説だった。大人の匂いがする。
それはどこか甘美で背徳の香りに包まれていた。
叔母が学校の先生に言ったらしく、ある夕暮れ、担任の先生に呼び出された。
27歳の女の先生は言った。
「あなた、おとなの小説を読んでいるそうですね」
三浦は口ごもる。
決して咎(とが)めるような口調ではないのが嬉しかった。
「先生はね、6年生になるまで、まだその本を読まないほうがいいと思いますよ」
三浦は聞いた。
「6年生になったら、読んでいいんですか?」
「そうね、6年生になったらお読みなさい」
そう言いながら、先生は、徳冨蘆花(とくとみ・ろか)や夏目漱石の本を貸してくれた。
自分が背伸びして大人の世界をのぞいているのが嬉しかった。
先生が、自分のことを早熟でいやらしい子、という扱いをしなかったことが有難かった。
三浦綾子はのちに、述懐している。
「もしあのとき、頭ごなしに本を取り上げられていたら、今の私はない」
小説家・三浦綾子は、17歳で女学校を卒業すると、小学校の先生になった。
時は、軍国主義に傾き、太平洋戦争への一途を辿っていた。
4年生のクラスを受け持つ。
芳子というリーダーがいた。
成績もよく、大人びて、綴り方もうまかった。
ある日の休み時間。
芳子ちゃんを中心に数人で石けり遊びをしていた。
ひとりの生徒がやってきて、「私も入れて」と言った。
でも、芳子ちゃんは無視。
さらにその子が頼んでも「知らない」と仲間に入れない。
どんなにお願いしても、無視し続けた。
それを見ていた三浦は、芳子ちゃんを叱った。
「どうして一緒に遊んであげないの?一緒に遊べないなら、一緒に勉強しなくてもいいです!あなたは、教室の隅で立ってなさい!」
三浦は、若かった。弱いものいじめをする子が許せない。
芳子ちゃんは泣いて謝ったが、自分の席に座ることを認めなかった。
三浦は願っていた。
貧しいとか成績が悪いとか、そんなことで人間を差別してはいけないということを知ってほしい。
結局、三浦は芳子ちゃんを3日間教室の隅に座らせ、自分の席につくことを許さなかった。
三浦は、真剣だった。
でも、やりすぎだったことものちにわかった。
教育がどういうものか、わかっていなかった。
芳子ちゃんは頭のいい子だから、そこまでしなくても気づいてくれたに違いない。
現場では、後悔の連続だった。
少しずつわかってくる。
間違うから人間なんだ。
間違ったと知ることが大切なんだ。
小説家・三浦綾子が、7年間の教師生活で学んだことは大きかった。
目の前の子どもを愛するということ。すべてはそこから始まる。
日記をつけた。クラスのひとりに一冊ずつ、日記を書いた。
毎晩、寝る間を惜しんで、ひとりひとりに向き合う。
決して勉強はできない、ある男の子がいた。
いつも鼻をたらしている。
ある日、飛行機の絵を上手に画いた。
「うまいね」とほめると、誇らしそうな顔をして、クラスメートに見せてまわった。
図画の時間が終わる頃、彼の絵は、真っ黒に塗りつぶされていた。
「いったい、どうしたの?」と三浦が尋ねると、彼は鼻をすすりながらこう言った。
「あのね、先生、飛んでいるうちにすんごい嵐にあったんだよ」
感動した。
なぜか、涙がこぼれた。彼の頭をなでてあげた。
頭ごなしに叱っていた自分は、どこかに消えた。
失敗していい。間違っていい。
そこから何かを学べば、きっと先に行ける。
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