第百十三話自分の五感を信じる
複雑な人間関係や入り組んだ政治や軍事を、わかりやすい平易な文体で描き、壮大な人間ドラマを具現化しました。
『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『街道をゆく』など、数多くの名作を世に残した司馬は、大阪府大阪市に生まれました。
東大阪市にある司馬遼太郎記念館は、彼のかつての自宅と、安藤忠雄設計の建物で構成されています。
司馬が愛した雑木林の庭から見える、彼の書斎。
机の上には、愛用の万年筆、そして推敲用に使った色鉛筆が、当時そのままに置かれています。
彼は、厖大(ぼうだい)な蔵書を持っていました。
その数、およそ6万冊。
その迫力を少しでも感じてもらおうと、記念館には、およそ2万冊の蔵書が、天井まで伸びる書架に納められています。
彼は、とにかく資料を読み込みました。
自分で調べ、自分の目で見て感じ、自分の足で稼いだ情報しか信じない、そんな信念を裏打ちしていたのは、「知らない自分」を知り、森羅万象に謙虚であったからに違いありません。
司馬遼太郎、本名、福田定一。
彼がなぜ、そのペンネームを使うことになったのか。
「司馬遷には、遥かに及ばざる、日本の者」。
歴史家の偉人、司馬遷には、遠く及ばないという謙虚さこそが、彼を厖大な資料から調べ尽くすという苦難の道に導いたのです。
簡単に情報が入る今の時代だからこそ、彼が私たちに問いかけることが多くあるように思えてなりません。
歴史とは何か?と聞かれると、司馬は、こう答えたといいます。
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生が、そこにつめこまれている世界なのです」。
小説家、司馬遼太郎が、その生涯でつかんだ明日へのyes!とは?
作家、司馬遼太郎は、1923年8月7日、大阪市に生まれた。
父は薬剤師。薬局を営んでいた。
兄がいたが2歳で亡くなり、司馬も病気で3歳まで母方の実家に里子に出された。
小学校に入ると、野山を駆け回るガキ大将。学校が嫌いだった。
将来の夢は、戦車隊の小隊長になること。遠い大陸の馬賊に憧れた。
中学に入っても勉強が嫌いで、300人中ビリに近い成績に本人も驚いた。
慌てて勉強したら、あっという間に20位以内に入った。
中学1年生のある英語の授業でのこと。
「ニューヨーク」という地名が出てきた。司馬は手をあげた。
「先生!この地名には、どんな意味があるんですか?」
先生は、烈火のごとく怒った。
「アホかぁ!地名に意味なんか、あるか!」
司馬は、納得がいかない。
初めて図書館という場所に入って、自分で調べた。
「もとはオランダの植民地で、ニューアムステルダムと呼ばれていたが、1664年にイギリス軍に占拠された。当時の国王の弟の名前がヨークだったので、ニューヨークになった」。
わからないことを自分で調べる。ただそれだけのことが嬉しかった。
「図書館っていうのは、すごいなあ。ここに来たら、なんでもわかる。ああ、いいところを知ったなあ」。
以来、学校は嫌いだが、図書館には足しげく通うようになる。
この体験は、作家になってからも生きていた。
『坂の上の雲』という小説を書くため、古本屋を片っ端からめぐり、「日露戦争」という単語の入った本を全部買い求めたという。
海軍士官の制服の袖についている金色の線。
その意味が知りたくて、資料を探し、ひとに尋ねる。
ようやくわかったのは、かつて甲板士官が腕に細いロープを巻いていた名残りだということ。
些細なことこそ、丁寧に調べた。
自分で調べる。そんな単純な積み重ねでしか、高みにはのぼれない。
愚直であること。
手間暇を惜しんでいては、坂の上の雲に、手は届かない。
作家、司馬遼太郎が22歳の誕生日を迎えたその8日後に、日本は降伏した。
終戦の体験は、いつまでも彼の心に残り続けた。
昭和20年、司馬は、栃木県にある戦車隊の隊員だった。
部隊に、ある日、大本営の少佐がやってきた。
将校が少佐に尋ねた。
「少佐殿、我々の連隊は、敵が上陸すると同時に南下、敵を水際で撃退する任務を持っております。しかしながら、東京都民が避難のため、北上することは必至。街道の大混雑が予想されます。そんな中、我が戦車隊は、立ち往生してしまうと考えられます。いかがいたしますか?」
少佐は、すぐさまこう言った。
「ひき殺して進め」
それを聞いた司馬は、思った。
「やめたやめた。オレは戦車が故障したことにして、その場所で敵と戦うことにしよう。日本人のために闘っているはずの軍隊が、味方をひき殺す?その論理はいったいどこから来るんだ?おかしい、何かがおかしい!」
日本人とは何か?人間とは何か?
司馬の心に、大きな疑念が擦りこまれた。
作家、司馬遼太郎の書く小説には、絶えず、この疑念への彼なりの答えが描かれている。
「自分にきびしく、相手には優しく」
ひとりひとりが、ただそのことだけを実践すれば、この世はもっと生きやすくなるのに・・・できない人間とはいったい、なんだ。
作家、司馬遼太郎は、終戦後まもなく、大阪の小さな新聞社で記者になった。
25歳の時、産経新聞京都支局に入り、以来、37歳で直木賞をとるまで新聞記者として働いた。
1950年金閣寺放火事件があった。犯人は寺に住む21歳の修行僧。
ただし、動機がわからない。
このとき、司馬が犯行動機をスクープした。
なぜ、スクープできたのか。
それは日ごろから足しげく、寺や大学を回っていたからだ。
雨が降ろうが雪が降ろうが、自分で取材する。
ひとから聞いた情報ではなく、自分の足で稼ぐ。
自分が見たもの、聞いたもの以外、信じない。
そうしてできた人間関係が、実を結んだ。
1960年、直木賞を受賞。
しかし同じ新聞社の仲間は、同僚の福田があの司馬遼太郎であることをほとんど知らなかった。
直木賞受賞パーティーを取材した記者仲間が、「あれ?なんで福田君が挨拶しているのかな」と思ったらしい。
新聞社を退社して筆一本になった。
かつてお世話になった産経新聞で『竜馬がゆく』を連載するとき、社長が破格の原稿料100万円を出した。
当時のサラリーマンの月給は5万円ほどだった。
社長は言った。
「福田君、これで一生でただひとつの小説を書きなさい」。
司馬はその気持ちに打たれ、もらった原稿料をほとんど資料代に使った。
その額の多さは、税務署が資料代と認めてくれないほどだった。
「資料を買って、こんな金額になるわけがない」
自分で調べ、舞台になる場所に出かけ、ひとに会う。
それをただひたすら繰り返しながら、作品を紡ぐ。
どんな脇役の人物も想像だけで書かない。
丁寧にひとの人生に向き合う。
作家、司馬遼太郎は言った。
「人間にとって、その人生は作品である」
だから、彼はどんな人物にも、優しい眼差しを向け続けた。
【ON AIR LIST】
やわらかい月 / 山崎まさよし
Stand Alone / 森麻季
Perfect Day / Lou Reed
僕の心をつくってよ / 平井堅
閉じる